あさい・ふかい・ひろい・せまい

あさい・ふかい・ひろい・せまい。

ジャパンマシニスト社の雑誌名みたいなフレーズで恐縮だが、ここのところ、もやもやしていることについて、この切口で考えてみたい。

何かマイノリティの問題を社会に訴えたいというとき、少しでも広く訴えたいと思う。それは当然だろう。そこで、マスメディアに報道してもらったり、ネットで拡散してもらったりするために、わかりやすいストーリーを提供しようとする。あるいは、最初からそういうつもりはなくても、だんだん、そうなってしまう。

しかし、わかりやすさは単純化でもあって、広さと引き換えに浅くなってしまう。しかし、社会に訴えたい問題というのは、たいていは深くてややこしい問題だ。でも、そのややこしさをねばり強く考えようとする人は、当事者やその周辺という狭い世界にかぎられてしまう。それだと、世の中の大半の人は無関心なままになってしまう。

だから、広く伝える努力も必要にはちがいない。ただ、そこで失われてしまうものへの感度を鈍らせてはいけないと思う。広く代弁された言葉というのは、多くの当事者の現実とはズレているものだと言っていいだろう。そして、そのズレは、けっして無視してはいけないものだ。

●もやもやこそ大事に

広さは、いわば手段としては、ときに必要なものだろう。しかし、まちがっても広さ自体に価値があるかのように勘ちがいをしてはいけないと思う。たとえば、人に関わる活動をしている人で、数を誇示する人を散見する。これまで◎人の子どもたちと関わっただとか何だとか……。しかし、多くの人と関わるほど、ひとりの人との関わりは浅くなってしまう。それに、その関わった相手の側からして、自分の行動がよかったかどうかなんて、わからないことだ。にもかかわらず、数を誇ることができるのは、どこか感度が鈍いからだと言いたくなる。善意の傲慢さのようなものが、そこにはある。あるいは、有名であることに価値があるというような、権威主義がある。だから、数を誇示する人を私は信頼できない。

うがった見方にすぎるかもしれないけれども、マイノリティの問題がマスメディアに取り上げられ、広く伝わるとき、こうしたもやもやは、かならず溜まっていくように思う。

そして、広く伝わったものは、忘れられやすくもある。なぜなら、多くの人は自分ごとではない問題に、そもそもそんなに深い関心は持っていないのだから。でも、もやもやは残り続ける。深い関心を抱く人たちのあいだに。広く伝えることは、ときに必要だけれども、そこに溜まるもやもやこそを大事にしなければならないと、私は思う。

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