オルタナティブな「選択」が揺らぐとき

このところ、関わりのあった人を見送ることが立て続いた。人が亡くなるということは、それ自体は必然ではあるものの、その人の亡くなり方や、それまでの生き方によって、こちら側には、いろいろな思いが残される。そのなかのひとつを、少し書いてみたい。

ある知人は、長年、ガンとつきあってこられていた。甲田療法などで、玄米食を中心とした生活をして、西洋医学に頼らずに、十数年、ガンと共存してこられていたのだ。それを誇りにしてもおられたように思う。しかし、ガンが進行し、緩和ケア病棟に入られて、私たちがお見舞いに行った際、その方は「抗ガン治療を受けておけばよかったかもしれない」と、つぶやかれた。私は返す言葉もなく、ただ、うなずくほかなかったのだが、そういう揺れる気持ちは、けっして抑圧してはいけないと思った。誰だって、死に直面すれば揺れるだろうし、そこまでの局面ではなくとも、自分が正しいと思って選んだ道が、ほんとうに正しかったのか、揺れることはあるように思う。

たとえば、学校に行かなくなって、フリースクールやオルタナティブ教育を選んだという場合でも、同じようなことはあるだろう。いまの学校のあり方に問題意識をもって、別のあり方を模索する。しかし、何か厳しい局面に立ち会ったとき、ほんとうにこれでよかったのかと迷ったり、揺れたりすることはある。だからといって、それがまちがいだったという単純な話ではないけれども、そこで揺れる気持ちは、抑圧してはいけないと思う。その抑圧は、学校に行かないことは悪いことだという抑圧よりも、さらに深い抑圧になってしまうように思うからだ。

不登校というのは、拒否反応のようなもので、「選択」ではない。病気というのも、けっして「選択」ではないだろう。しかし、フリースクールやオルタナティブ教育、あるいは代替医療などは、その人の「選択」だと言えるだろう(親が選んだのであって、子ども本人が選んだわけではないということは多々あるが)。あるいは、低学歴のまま生きていくとか、医療に頼らずに生きていくと決断するのも、ひとつの「選択」と言えるかもしれない。しかし、その「選択」の結果は、自己責任として問われることにもなる。だから、何かうまくいかない状況に直面したとき、自分の選択はこれでよかったのかと思い悩むことにもなる。しかし、そもそも人が生きているというのは、迷ったり悩んだり、葛藤したり、試行錯誤し続けるもので、「選択」だって、その過程のひとつなのだと思う。確固たる「選択」なんて、はたして、どれほどあるだろうか?

それが何であれ、オルタナティブな模索をしている人たちは、揺らぎを含んでいなければならないと、私は思う。それを抑圧してしまうと、カルトになってしまう。悩んだり葛藤のできない社会ほど、怖いものはない。もっと言えば、社会全体が、オルタナティブな模索も含めた、揺らぎを含んでいなければならないだろう。何か失敗があれば、「それ見たことか」と自己責任に帰すような社会は、懐の狭い社会だ。オルタナティブな模索は、個人の選択肢を増やすというよりも、社会の懐を拡げていくものであるべきなのかもしれない。そして、それは個人の力だけでできることではなく、人とのつながりのなかでしかできないことだ。迷いながら模索を続けているひとりとして、そんなことを思う。

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