不登校は差別語?

不登校新聞487号(2018年8月1日)に、「不登校という言葉はもうやめよう」という記事が載った。喜久井ヤシンさんという方が書かれたもので、喜久井さんは、「不登校なんて言葉は最悪だ」という。少し引用しよう。

まず「不」とは何事か。ガッコウに行かないこと、行けないことについて何十年も議論しているというのに、いまだに「登校の否定」によってしか語れないなんてどうかしている。もしも日本語で女性のことを「不男性」、LGBTを「不異性愛」、在日コリアンを「不日本人」などと呼んでいたら差別だろう。なのになぜ「不登校」はありなのか。そして便宜上必要だったとはいえ、「不登校」という言葉が、なぜ法律にも位置づけられてしまったのか。

喜久井さんは、「不登校」を差別語だと断じ、「私はこの言葉を生涯かけて呪う」とまで語り、そして、新しい造語を勝手に使っていくべきだと書いている。たとえば「教育マイノリティ」「オルタナティブ・エデュケーション・チルドレン」「私教育集団」など。
こうした議論は、昔からあった。同じ否定形でも、「登校拒否」のほうが、本人の拒否の意志が表れていてよいという人などもいた。否定形ではなく、もっと積極的に語ることのできる言葉はないのかという問題意識はわかるようにも思う。

しかし、それに対して喜久井さんが提案されている造語は、どれも「不登校」とはズレをはらむもののように思える。手前味噌で恐縮だが、私は共著の本『名前のない生きづらさ』のなかで、次のように書いた。

不登校という名前は、それ以前に比べれば淡白になったとは言え、やはり、そこには学校に行かないことを異常視するような、名づける側のまなざしがある。しかし、それを周囲がフリースクールやホームエデュケーションなどの名前に置き換えて、世間に理解しやすいストーリーに組み替えてしまうことも、本人不在になってしまうと言えるだろう。不登校は、フリースクールという名前からもズレるものだ。そして不登校に関わる人は、そのズレにこそ、真摯でなければならないと私は思っている。ただ、そのズレは、一般にはとてもわかりにくいものだし、わかりにくいものを、わかりにくいままに見るというのは、なかなか難しいことだと感じている。

積極的なものとして語ろうとしたとたん、実際とはズレてしまう。そういうところが「不登校」にはあるように思える。不登校にかぎらないが、子どもが「イヤ」と言っていることに対し、「じゃあ、どうしたいの」と親が迫ることはよくある。しかし、イヤなものはイヤとしか言いようがない。何かを選ぶことと、「イヤ」は異なるものだ。学校がイヤということと、オルタナティブな教育を選ぶことは同じではない。

話はいきなりぶっとぶが、般若心経は、たった266文字のお経のなかに「不」が9回、「無」は21回も出てくる。仏教のエッセンスとも言われる般若心経は、ああでもない、こうでもないと、ほとんど否定形でしか語っていない。真理というか、そういうものは、否定形でしか語り得ないのかもしれない。

それはともかく、私は、不登校はやはり否定形でしか語り得ないものではないか、という気がしている。それが個人の心理の問題にされたり、差別の対象とされるのは問題だが、否定形だから差別語だというのは短絡にすぎるだろう。

不登校はモヤっとしているがゆえに、いろんな人が自分の文脈に引き寄せて語ってきた。たとえば、精神科医、心理学者、教師、親、フリースクールやホームエデュケーションの関係者などなど。しかし、そのどれもが、ズレをはらんできた。
喜久井さんが「不登校」という言葉に感じるズレには共感するが、であればこそ、ズレこそを大事にしませんか、と提案してみたい。

コメント

  1. 記事を執筆した喜久井ヤシンです。「不登校新聞」の方から聞き、コメントを読ませていただきました。レスポンスをありがとうございます。
    見出しに選ばれてしまいましたが、「不登校は差別語だ」という断定した言い方には、私自身違和感があります。「不~」という言葉を批判するために差別という言葉を出しましたのであり、すでに歴史のある「不登校」の名称が、そのまま差別語だと主張したかったわけではありません。(文意からそう感じられるので、言い訳でしかないのですが。)
    ズレを大事にする、という提言を拝聴いたします。
    ただ、私が名前の多彩さを体感してきたことは、名称への感覚に影響しているかと思います。
    たとえばLGBTコミュニティに参加した際、自己紹介で登場する名称は多岐にわたります。「G(ゲイ)寄りのB(バイセクシャル)で自分ではクィアだと思っています」、「FtM(女性から男性への性転換者)のトランス(性別越境者)ですが最近の性自認はX(性別不詳)です」など、複数の名乗りが可能となっています。
    百人に対して三百通りのバリエーションがあっても、なお自己と名称にズレは生じます。
    これに対して、学校に行かないことがほぼ「不登校」の一択でしか語れないことは、ズレというよりも、はっきり不自由であると感じています。
    個人的には、言葉そのものにもオルタナティブな名称があってほしいと思います。
     追記
    以前、『名前のない生きづらさ』を読ませていただきました。私はひきこもりに関する「ひきポス」というメディアに参加しているのですが、山下さんの、「そもそも『ひきこもり』なんて人はいない」といった、シンプルな指摘に刺激を受けました。
    「不登校新聞」、「50年証言プロジェクト」とともに、今後も山下さんの記事を拝読したいと考えております。
    長いコメントを失礼いたしました。

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  2. はじめまして。
    喜久井さんの書かれた記事には応答したいなと思って、くだくだと勝手に書かせていただいた次第です。
    セクシュアリティの多様性は、マイノリティに名称をつけるだけではなくて、マジョリティと思われているヘテロセクシュアルも多様性のひとつにしてしまうところがありますね。そういうところからの問題意識だということは、記事からもうかがわれました。
    ただ、セクシュアリティというのも、その人の一部でしかないですよね。にもかかわらず、どんな「名前」でも、「名前」は人を縛ってしまうところがあります。不登校は、あくまで学校との関係における名前でしかないので、そういう意味では、「不登校」なんて人もいないと言えるでしょうね。
    発達障害(自閉症スペクトラム)では、いろいろと細分化した名前がつけられたあげく、アスペルガー症候群などの下位分類は消えましたね。自閉症スペクトラムの場合も、ほんとうは定型発達も含めてスペクトラムのはずなんですが、でも、どこかで線引きされているわけです。
    そう考えていくと、細分化してぴったりの名前をさがしていくよりも、名前とのズレを大事にしつつ、ズラしていくというのも戦略かもしれないなと思ったりする次第です。
    『名前のない生きづらさ』や不登校50年の記事も読んでいただいているのですね。ありがとうございます。
    今後とも、よろしくお願いします。

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