「いじめから逃げる」という言葉が届くには……

「自殺するくらいなら学校なんて行かなくていい」

「いじめられていたら逃げていいんだ」

「学校の外にも生きていく道はある」

こうした言葉は、ずいぶんくりかえし語られてきた。今回の大津市のいじめ自殺事件では、マスコミでもひんぱんに、こうした言葉を聞いた(私自身、そういう言葉で語った)。

それは「うつの人にがんばれと言ってはいけない」というのと同じような、ある種、常識化した認識になってきたとも言えるだろう。しかし、にもかかわらず、いじめで自殺に追い込まれたり、自殺までいかなくとも、学校を休むこともできず、苦しんでいる子どもは跡を絶たない。

私は1986年にいじめで自殺した鹿川裕史くんと同じ齢だ。当時、私自身、さまざまに暴力を受けていたが、事件がマスコミで大きく取り上げられていても、なぜ騒ぐのだろう、自殺くらいするじゃないか、と思っていたように記憶している。そのとき、上記のような言葉を耳にしても、リアリティのない言葉にしか聞こえなかったかもしれない。

学校に行かなかったら、その後の人生がないと思いこまされている。だから、学校から逃げることはできないし、いじめもエスカレートし、ときに被害者は自殺にまで追い込まれる。

学校を相対化することは切実に必要だ。しかし、問題は、どうしたら学校を相対化できるのか、だろう。学歴で人が選別され振り分けられ、ふるい落とされる状況をそのままにして、「学校に行かなくてもいい」と言ったところで、その言葉はなかなか届かないように思う。

また、そこで生じる「不利益」は自己責任でまかなえ、と言っているにひとしい。私たちもフリースクールを開いていて、学校外に子どもの居場所があることの意義はあると思っているが、その費用は親に負担してもらわざるを得ない。そういう矛盾、ジレンマがある。

では、たとえばオルタナティブ教育法ができて、フリースクールなどを選択できる制度になったら、学校を相対化できるだろうか? そんなことはない、と私は思う。むしろ、制度化することで、その選択はカッチリした硬直したものになってしまうように思う。フリースクールなどの居場所は、学校的価値からの撤退だからこそ、居場所になってきたのではないか。親の負担にしても、学校として認められたところで私学であるから、費用負担が減ることはないだろう(実際、特区学校となったフリースクールの費用は相当額だ)。多少、制度が柔軟化したところで、フリースクールが学校になってしまったら、かえって子どもが学校的価値から撤退することは難しくなるのではないか。

学校を相対化するためには、学校的価値を相対化することが必要だ。学校的価値というのは、人を学歴価値で商品化し、序列化している世間の価値尺度と言える。フリースクールで育つほうがいい商品になれますよ、というのでは、学校が多様化したとしても、学校的価値はかえって強化されるばかりだろう。

根本を言えば、学校だけではなく、社会の仕組みが変わらないといけない。しかし、社会の仕組みが簡単に変わることはない。では、学校的価値の相対化は無理なのかと言えば、そんなことはないと思う。それは、学校的価値からは無用とされるような人や場との出会いによって、なされるのだと思う。そして、それは一直線になされるのではなく、矛盾や葛藤のなかで、何度も揺れ動くなかで、少しずつなされていくことだろう。

微力だが、私たちは学校的価値からの逃げ場として、居場所を開いているつもりだ。いま、いじめに遭って逃げ場を失っている子どもには、まずはとにかく逃げてください、と呼びかけたい。そのうえで、もし出会うことがあったなら、私たちはその方の苦労をこそ、応援したい。

コメント

  1. 原因の解決が重要。
    通信制と単位制のような軽いものにすべきだ。
    今の苦しんでる子供らを助けたい。
    何もできない自分が辛い。

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