選択ストーリーにさよならを

『Fonte』343号(2012.08.01)の時評欄に、オルタナティブ教育法案について記事を書いた。(編集部の許可を得て転載)

●オルタナティブ教育法案と不登校/選択ストーリーにさよならを

学校が一枚岩で画一的だから、いつまでも不登校が苦しい問題としてある。だから選択できる学校制度にすれば問題は解決する。既存の学校に行かなくても、フリースクールやホームエデュケーションで学べば社会人になれる、結婚もできる、だからオルタナティブな教育制度を認めてほしい。そういう薄っぺらいストーリーで、オルタナティブ教育法をつくろうという動きがある。私は「多様な教育制度」に反対しているわけではないが、この法案の薄っぺらさは、どうも鼻持ちならない。

「学校に行かなくても社会でやっていける」という語り口がダメなのは、学校だけを問うて、社会のあり方を問わないからだ。フリースクールなどの意義は、社会でやっていける人材を輩出する教育機関だからではなく、市場価値一辺倒の社会のなかで、それとは別の価値尺度で人がつながる場=居場所だからではないのか。少なくとも、不登校という問いに立つならば、この社会でやっていけない側に立ち続け、やっていけない社会のあり方を問い直すことが必要だろう。それは、矛盾を抱え続けるということでもある。

たとえば、学校に行かなくなった人がフリースクールなどに出会い、「学校なんか行かなくてもいい」と思う一方で、将来に不安を覚えたり「やっぱり学歴は必要かもしれない」と思ったりする。それは当然だろう。いろいろ揺れ動きながら、葛藤しながら、価値尺度が相対化できれば、それでいいんじゃないかと思う。現実というのは、常に複層的なものじゃないだろうか。矛盾したものが、いつも同居している。その複層のなかを、往きつ戻りつしながら、自分の考えなり生き方なりが練られていくのだと思う。価値観が一元化されてしまうと、その往復ができなくなって、カチンコチンになってしまう。それでは苦しい。それは、世間の価値観に自分を合わせている場合だけではなく、オルタナティブな価値観を求める場合でも、同じだろう。理念として掲げたものに、現実を無理に鋳込んでしまうと、カチンコチンになってしまう。

●選択言説の抑圧性

「不登校を選んだ」という言説が当事者にとって抑圧性をもってきたということ、不登校運動の「選択」言説が新自由主義と親和性が高いことなどは、貴戸理恵さんや常野雄次郎さんがつとに指摘していたことだ(*1)。いまや、ますます市場原理がすみずみまで浸透し、子ども若者は選択の主体となるどころか、逆に市場によって選択され、使い捨てられる存在となり、そのために果てしのない競争を強いられている。

市場原理だけでは人は生きていけない。だからといって、大阪市の家庭教育支援条例案(*2)のような保守的なお化けやナショナリズムには持っていかれたくない。古い共同体でもなく、国家でもなく、市場でもない、開かれているけれども、おたがいさまで人が支え合える場をつむぎだしていくこと。不登校運動は、早くからそういう志向性を持っていたはずだ。

オルタナティブ教育法案のような薄っぺらい「選択」ストーリーは、いいかげん手放そう。むしろ、矛盾を手放さないことが大事ではないか。不登校運動に関わってきた方たちに、私はそう問いたい。

先日、貴戸理恵さんとの対談をネット上にアップした。『不登校は終わらない』を再考し、不登校運動をふり返り、今後を展望した対談で、ここで、私なりに問題点を整理し、おおまかな方向性を提示したつもりだ。本欄では字数も尽きたので、よければ、ぜひ読んでいただき、ご意見をいただきたい。(本紙理事・事務局長/NPO法人フォロ事務局長)

『不登校は終わったのか?』(貴戸理恵、山下耕平/NPO法人フォロ刊2012)

*1 『不登校は終わらない』(新曜社2004)、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(理論社2005)参照。
*2 本紙338号参照

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