「神様化」も「悪魔化」もせずに

社会問題などに取り組んで信頼されてきた個人や団体が、何か失言なり不祥事なりを起こすと、信頼を失ってしまう。それは当然のことでもあるだろうが、その一点で、すべての信頼を失ってよいのか、と思うこともあるだろう。失言や不祥事への批判はきちんとしなければならないが、ややもすると、それが人格攻撃のようになって、その人(団体)の言動のすべてが悪いというようなバッシングとなってしまう。反面、そういうバッシングを避けようと、きちんと批判や検証することを控える人たちがいて、その人たちは沈黙してしまう。結果、問題をきちんと検証することができず、忘却されていってしまう。そういうことが、ままあるように思う。

「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、誰かの言動を批判をするときは、その人の人格とは切り分けないといけないと思う。第一、どんな立派なことをしている人であっても、結局は、人間のやっていることであって、まちがいもあれば、わかっていないこともあるものだろう。ひとつの問題に理解の深い人が、ほかの問題をわかっていないことなど、たくさんある。勝手に「神様化」しておいて、「神様じゃなかった!」と嘆くのはむなしい。

逆もまた然りで、どんな悪いことをしている人でも、正しいことをすることもあれば、やさしかったりすることもあるだろう。たとえば、ユダヤ人のホロコーストを指揮したアイヒマンは、極悪人などではなく、ごく平凡な役人で家庭人だったそうだ。理解不能な「悪魔」だったわけではない。

問題と人格をいっしょくたにすれば、その人を排除するしかなくなってしまう。そうなると、問題をきちんと検証することもできないし、対話もできない。あるいは、こちらが人格と切り分けて批判しているつもりでも、相手が人格攻撃と受けとめてしまうと、批判には壁を立てられてしまう。そして、もっとタチが悪いのは、個人対個人ではなく、派閥どうしの争いのようになってしまうことだろう。そうなると、敵か味方かに二分してしまい、自分たちの陣営にあることは、問題があっても目をつむり、相手のほうの問題は攻撃するということになってしまう。

批判が対話に開かれるとすれば、まずは自分への批判を真摯に受けとめることからしか、始まらないのかもしれない。自分自身だって、批判されるべきことはたくさんあって、他者を一方的に指弾できるほど、正しい存在なわけではない。だからといって、なあなあにしようということではない。おたがいに、問題と人格とは切り分けて、対話すること。それは、勝つか負けるか、ということではないのだから。

こんなことをあらためて書くのは、おこがましいような気もしたのだが、身近なところでも、さまざまな局面で、こうしたことが生じているように思えて、書きとめておきたくなった次第。ご批判歓迎。

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