書評:『〈自立支援〉の社会保障を問う』

『〈自立支援〉の社会保障を問う』(桜井啓太/法律文化社2017)という本を読んだ。ずっと気になっていたものの、5832円という高額ゆえなかなか入手できずにいたのだが、ようやく読むことができた。

本書は、「自立支援」という言葉が、日本においていつから出てきて、どのように広まり、福祉政策に影響してきたか、そして、ほんとうに「自立支援」が自立につながっているのかを、たいへん丹念に実証的に追うとともに、広く深い視野から批判している。

本書によると、日本で「自立支援」という言葉が出てきたのは1987年のことで、たかが30年前のことにすぎない。そして、当初は中国残留孤児の日本社会への定着問題として語られていたそうだ。それが、高齢者、児童、母子家庭、障害者、生活保護世帯、ホームレス、ひきこもりやニートなど、どんどん拡大していき、いまや福祉そのものが、困窮者の保護から自立支援へと変質してきた。

しかし、たとえば全国の福祉事務所へのアンケート調査では、就労自立支援プログラムの対象者のなかで、実際に就職した者の割合が40%以上の自治体の割合は23.1%だそうだ。また、就職者のなかの正規職就職者の割合の調査では、正規職就職者が0%の自治体が44.5%、0~30%未満の自治体が29.3%だった(『現代の貧困ワーキングプア』五石敬路/日本経済新聞出版社2011)。

これでは、結局のところ、自立支援策はワーキングプアを生み出しているだけということになる。個人に働きかけるプログラムがいかに充実したとしても、劣悪化している労働環境を問わないままであれば、それは当然の帰結だろう。不登校に引き寄せて言えば、子どもが行けなくなるような学校の状況をそのままにして、不登校した子どもに学校復帰を働きかけてきたのと同じだ。それがいかに不合理で、かつ子どもを追いつめるものであったか。同じことが自立支援策にもあてはまると言えるだろう。桜井さんは次のように指摘する。

自立を十全に充たすような仕事はすでになく、一方で自立の達成要因は個人化されている(労働市場の劣化は問われない)。福祉給付を受けているということは、自立に向かって改善の余地がある「何か」が残されていることを意味しており、自立支援の継続が要請される。自立の拡張とそれに対応するように増殖した支援プログラム、そのなかで終わりなく続く恒常的な自立支援。永遠に参入され続ける対象者と、先がなくても促し続けなければならない支援者という、おたがいにとって苛酷で悲惨な構図。これがいまの自立支援の一側面である。

そして、もっと大きな問題は、自立支援策が対象者の〈生〉の在り方に介入していることだという。言ってみれば、その人の「やる気」問題になってしまっていて、就労への意欲があるかどうだとか、施策が個人の内面にまで干渉するものになっている。そして、そこに乗っからない人は「怠けている」と指弾される。ここにおいても、不登校に通じるものがある。不登校施策をめぐって感じてきた違和感は、あらゆる領域で同時並行で起きてきたことでもあるのだと、本書を読んでよくわかった。げんなりするが、そのげんなりする現実のなかで、考えていかなければならないのだろう……。
桜井さんは言う。

努力するものを助ける、自立のために支援する、という美しい言葉の恐ろしい可能性は、努力していないあるいは自立のために役に立たない(とみなされた)ものを切り捨てるということだ。自立支援の役割とは、自立可能と判断したものにどこまでも自立を求め、自立に役立たないとしたものは見捨てられ、廃棄される。自立支援のロジックは、生存権や社会権にまで分断線を入れる可能性をもつ。
私たちの社会は、困窮している人々の生をただ保障することができなくなっている。「自立のために」と頭につけなければ、津波で家が流された人々にコメを配ることすら満足にできなくなっている。

結論として、桜井さんは「依存の復権」が必要だと言う。それは長年、障害者運動のなかで培われてきた思想でもあるだろう。それとは逆に、教育という分野は福祉よりもさらに、「自立」神話に染まりきってしまっている。そして、その神話は柔軟化するとともに、フリースクールなども呑みこんでいる。本書で語られていることは、福祉政策についてだけではなく、私たち自身の価値観を深く問うている。

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