断片から見える景色を

フォロのニューズレターに、当事者研究について思うところを書いてみた。

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づら研(生きづらさからの当事者研究会)では、よく「渦中のときは言葉にならない」ということが言われる。生きづらさを語ると言っても、いま渦中にある、一番しんどいところは、言葉にならない。言葉になるのは、ある程度、のど元を過ぎて、ほとぼりもさめかかったころのことだ。言葉になった時点で、生きづらさは半分くらいは成仏しているというか、何かが解決しているわけではなくても、整理されているところがある。

でも、まとまった言葉ではなくても、断片的に言葉になることはあって、いろんな人の、断片を持ち寄ると、そこで見えてくるものがある。おしゃべりしているうちに、だんだん景色が見えてきて、視野が開けてくる感じ。それを私たちは、「当事者研究」と呼んでいるように思う。

●スタッフも当事者研究


ところで。

この当事者研究的なものというのは、いろんなところで活かせるように思っている。たとえば、昨年度までは助成事業として行なってきた「不登校さぽねっと」の活動は、今年度は規模を縮小して、フリースクールスタッフの当事者研究を試みたりしている。スタッフも、子どもとの関わりや、スタッフどうしの関わり、自身の問題など、いろいろ困難さを抱えることがある。それを「支援者」の顔をして、「自分は大丈夫です」みたいに言っていると、その困難さを自分に閉じ込めてしまって、こじらせてしまうことにもなりかねない。スタッフこそ、弱さを情報公開して、渦中にある問題の断片を持ち寄って、言語化できないでいる部分を言葉にしていく工夫が必要かもしれないと思う。

あるいは。

子どもたちとも、もっと、こうした試みができないだろうか、と思案している。自分のことを思い起こしても、中学生のころなどは、渦中の問題を言語化できないで苦しかった思いがある。10代にこそ、当事者研究的なものは必要かもしれないとも思うのだ。とくに、いまの子どもたちは、上の世代の人よりも、自分の置かれている状況が不透明で、つかみづらく、自分の困難さも、言葉にしにくいように思う。TwitterやLINEには、断片の言葉があふれている。でも、それが持ち寄られて、分かち合われて、そこから視野が広がるような工夫がないと、断片はささくれだったままで、苦しいような気がしてならない。

●現代版の綴方運動?


私は不登校新聞社というNPOにも関わっているのだが、そこで「不登校50年証言プロジェクト」という企画を担当している。プロジェクトでは、70~90代の方にお話を聴いたり、編集したりする機会が多く、そのなかで何人かの方から、生活綴方運動の話をうかがった。貧しく苦しい生活状況のなか、自分の置かれている状況を作文にして、それを教師や、ほかの生徒とやりとりするなかで、自分の状況を考え、自分の生活を自分の言葉で語り、そこから視野を広げていく。そして、それが自分の生きる土台となっていく。

いまの子どもたちにも、現代版の「生活綴方」のようなことが、必要なのかもしれないと思う。いまの時代は、かつてとは、またちがった意味で、子どもに厳しい時代だ。何が苦しいのか、何が不安なのか、何が問題なのか、とても見えづらい。そんな不安をひとりで抱えていると、こじらせてしまう。

スタッフも、親も、子どもの上に立つのではなくて、いっしょに考え合って、断片をつないで、そこから見えてくる景色をながめる。そんなことができないかと夢想している。
(Foro News Letter Vol.45 / 2017.11.15)

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