選択肢ができればよいのか?

フリースクール界隈では、よく「多様な学び」と言われるけれども、そもそも「多様な学び」とは何だろう? 私なりの解釈で言うと、学びというのは学校という上から与えられる教育にかぎるものではなく、子どもの自主性や自発性にもとづいて、もっと多様なあり方にひらかれるべきだ、ということではないかと思う。少なくとも、私はそういうものだろうと思ってきた。

しかし、実際問題としては、さまざまな制約もあって、自分たちのできてきたことは不充分きわまりない。とくに、お金や設備などは不充分で、それを何とかするためにも、公的な資金が必要だというのが、教育機会確保法を推進してきた人たちの思いのひとつだろう。

その思いはわかる。しかし、それは教育機会の選択肢のひとつとなれば、解決するのだろうか? 仮に公的支出が出ることになったとして、その選択肢を選ぶのは保護者だ。さまざまな教育サービスが登場し、その競合にかけられていくうちに、消費者ニーズに応え、選ばれるための価値を高めることに躍起になって、気づけば教育サービスの選択肢のひとつになりさがってしまう、なんてことはないだろうか? しかも、そういう競合となれば、結局のところ、資本力のあるところにはかなわないだろう。

さらに言えば、選ぶ主体は保護者であって、子どもではない。少なくとも、サイフのヒモを握っているのは保護者であるから、保護者の意向を無視して、子どもが選ぶことはできない。そして、保護者のほうも、いっしょに場をつくっていくという意識ではなく、消費者として教育サービスを買うという意識になってしまうのではないか。

私が関わってきたフリースクールでは、小さくとも、手づくりで場をつむいできたという実感がある。お金も設備も不足するなかで、できることを工夫し、智恵を出し合う。20年以上前、東京シューレでスタッフをしていたときも、そうだったように思う。それは、ささやかながら、教育サービスを選んで買うのとはちがった、多様なあり方にひらかれた営みだったと言いたい。

もちろん、私たちにも矛盾や葛藤はある。さまざまな意味で、ともに場をつくることは難しくなってきているようにも感じる。とくに、お金の問題は大きい。それでも、そうした営みをあきらめたくはない。どんなかたちになるにせよ、小さくとも、手づくりの場は、営んでいきたい。それは、教育サービスの選択肢になるのとは異なる、多様性にひらかれた、わずかな可能性だと思う。ねがいを込めて。

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