書評『愛とユーモアの社会運動論』


北大路書房から『愛とユーモアの社会運動論』(渡邊太)という本を贈っていただいた。読んでみてびっくり、自分の問題意識と重なる部分が多いというか、ほとんど全面的に同意共感し、ほれぼれとしてしまうほど、ググっとくる本だった。

著者は、資本主義の仕組みから説きおこし、なんで、いまの社会に生きていると、こんなにも疲れてしまい、息苦しいのか、ていねいに解き明かしてくれる。それはマルクスが吸血鬼にたとえたように、資本が生きた労働を吸い尽くして増殖していくからで、末期資本主義の現在は、人は労働だけではなくて、消費から私生活の領域まで、すべてを資本に吸い尽くされてしまっている。末期資本主義のなかで、私たちは無際限に走り続けるよう仕向けられている。しかも、がんばればがんばるほど、不安定化し、窮乏化してしまう。

絶望的な状況のなか、「希望は戦争」とか言ってしまうのではなくて、希望を見出すことはできるのか。著者は、深く内面化されてしまっている「禁欲的頑張る主義」や、“現実なんてこんなものさ”と決めつけている硬直した精神を笑いとばし、ユーモアをもってたたかい続けることを提唱する。イタリアのアウトノミア運動や韓国のスユノモ、国内のだめ連や素人の乱、著者が関わるカフェコモンズの活動など、さまざまな具体例をひきながら、可能性を探っている。個々バラバラ、疑心暗鬼に競争を強いられる強制労働社会にあって、人々が自律的につながってコミュニケーションできる有象無象のスペースをつくっていくこと。いま、必要なのは、そういうさまざまな実験なのだ。著者は言う。

たまたま実現しているにすぎない現実を唯一不変の現実と信じ、別様の生を想像できなくなってしまうシリアスさの呪縛から逃れるためには、遊びが必要である。遊びのなかで、わたしたちは、世俗的な功利主義的価値や権威主義的序列から意味を奪い取り、自律的な生を取り戻すことができるかもしれないのである。(中略)わたしたちが社会をつくるための方法論は、遊びと実験である。

「禁欲的頑張る主義」は、学校を通じて内面化されるものでもあるし、不登校やひきこもりは、別様の生のあり方への通路ともなりうるものだと私は感じてきた。それはまっすぐな道ではなくて、複線的というか、行きつ戻りつというか、矛盾だらけの迷走路だろう。資本主義の外には出られそうにないし、むしろ潜りながらつながっていく、みたいな。私たちがコムニタス・フォロでやっていることも、いわば“遊び”だ。

冒頭に書いたように、私はここに書かれたことに、ほぼ全面的に同意共感するのだが、あえて言えば、ニートという概念へのこだわりについては、どうかなと思うところもあった。著者はニートという言葉を逆手にとって、“ニートピア”“ニート鍋”などの企画を催している。それは、労働の拒否というアウトノミア運動の残響がそこに感じられるからだというが、私は、不登校にしても、ひきこもりにしても、ニートにしても、それ自体をアイデンティティにしてしまわないほうがいいような気もしている。学校に行かないとか、ひきこもっているとか、働かないというのは、いわば状態像で流動的なものだし、あんまりこだわると、かえって硬直してしまうような気もするのだ。

それにしても、すごく身近にいながら、著者の渡邊太さんにお会いしたことがない(たぶん)。渡邊さん、おしゃべりしたいので、私と遊んでください!

コメント