「登校」「不登校」を二項対立にしないこと

何の問題でも、当事者をさしおいて、支援者やら専門家やらがわがもの顔で、わかったように語るのは恥ずかしいことだろう。たとえば不登校について、専門家たちは、やれ母子分離不安だの、父性の欠如だの、怠けだの、耐性の欠如だのと、ずいぶんなことを言ってきたのだが、そういうことを言わなくなったあとも、きちんとそれを省みている人はあまりいない。

「当事者主権」や「当事者研究」というように、どんな問題でも、専門家たちに一方的に判断してもらうのではなく、自分たちのことは自分たちで考え合い、そこから支援のあり方なり、望ましい社会のあり方なりを考えていくことは大事なことだろう。

しかし、当事者が言うのであれば、何でも正しいのかと言えば、当然そうではない。第一、同じ問題の当事者でも、個々人によってさまざまで、誰が代弁できるのかという問題がある。また、ひとつの問題の当事者は、その部分だけを生きているわけではなく、さまざまな当事者性が重なり合っている。たとえば、同じ不登校といっても、親の職業や収入状況、地域、性別、セクシュアリティ、ほかのマイノリティの当事者性など、さまざまで、けっして一概には語れない。

社会学者の鄭暎惠は、マイノリティの語りについて、次のように言う。

マイノリティが、「マジョリティ」に向かって、「マイノリティ」として語るとき、細心の注意を払わなくてはならない。「マイノリティ」として語ることが、〈聞き手〉によって、ある〈代表性〉を付随されていないか、と。ある「マイノリティ」が何かを表現することが、それ以外の「マイノリティ」の表現を、封じ込める口実となってしまってはいないか、と。この問題を超えるためには、「マイノリティ」としてのアイデンティティを揺さぶるしかない。「マイノリティ」―「マジョリティ」の二項対立のなかで、アイデンティティを打ち立てないこと。「マジョリティ」に向かって語るときは、かならず「マイノリティ」どうしのあいだにもある差異についても語り、「マジョリティ」によるステレオタイプ化を許さないこと。だが、まず何よりも肝心なことは、「マジョリティ」に向かって、「マイノリティ」として語らないこと、これにつきる。(鄭暎惠「アイデンティティを超えて」井上俊ほか編『差別と共生の社会学』岩波書店1996)

不登校に即して言えば、フリースクールなどに通っていた人たちの語りが、不登校を代弁する語りとして広まり、受けいれられてきたところがある。しかし、文科省の調査(*)によれば、フリースクールに通っている義務教育段階の子どもの数は4200人で、不登校している児童生徒の3.5%にすぎない。しかも、フリースクールは都市部に偏在している。フリースクール経験者の語りは、けっして不登校全体を代弁できるものではない。

また、不登校は無登校ではない。不登校というのは、年間30日以上の長期欠席のうち、病気や経済的理由をのぞいたものを指すが、不登校数14万4031人(小・中学生/2017年度)のうち、出席日数が10日以下の人は1万6074人。不登校全体の1割ほどだ。「登校」と「不登校」は、二項対立でくくれるものではなく、グラデーションのようになっているものだ。しかし、それがマジョリティに向かって語られるとき、二項対立のなかで、「不登校」はひとつのアイデンティティとなってしまう。それは、ほかの当事者の語りを抑圧してしまうだけではなく、語っている本人にとっても、とてもあやういものだ。なぜなら、自分のアイデンティティを「不登校」に固めてしまうことにもなるからだ。
では、どう考えたらよいのか。鄭は、次のように言う。

「マイノリティ」は、「マイノリティ」に向かってこそ、おおいに語るべきなのだ。語り合い、「マイノリティ」としてくくられた者どうしにもある〈差異〉を浮き彫りにしていくこと。そして、その〈差異〉をてことして、差別によって埋もれた〈自己〉を発掘していくこと、それこそがいま必要なことなのだ。(前掲書)

不登校は、当事者性のひとつではあるだろうけれども、そこにはさまざまな差異がある。マジョリティに向かって語ろうとすると、ステレオタイプになってしまうが、不登校経験者どうしで語り合えば、そこからは差別によって埋もれた〈自己〉を発掘していくことができる。たとえば「当事者研究」には、そうした可能性もあるように思う。

私自身のことを言えば、私は不登校の「当事者」ではない。しかし、ずっと不登校に関わり、そこから自分が問われ、考え続けてきた。たとえば、「なぜ学校に行かないのか」ではなく、「なぜ学校に行くのか」を考える。不登校〈を〉考えるのではなく、不登校〈から〉学校のあり方や社会のあり方を考える。これは、ほかのマイノリティの問題を考えるうえでも、必要なスタンスではないかと思っている。マジョリティの価値観を問わないまま、マイノリティのことを考えることは欺瞞でしかない。

マジョリティ―マイノリティの力関係を直視しつつ、それを二項対立にしないこと。さまざまな当事者性が交錯するなかで、その差異を大事にしつつ、考え合っていくこと。そのとき、自分の価値観を固定化させず、他者の声に聞く耳を持ち続けること。それは耳の痛いことではあるだろうけれども、自分の価値観を問い直すことは、〈自分〉を発掘する作業にもなり、そこには豊かさや可能性があるように思う。そして、そういうことが可能な場というのは、きっと小さな場だ。大きな声をはりあげないといけないような大きな場では、大きな声ばかりが通ってしまう。

小さな場で、小さな声で語り合い、ひとつの方向にまとめることなく、矛盾や葛藤をはらみつつ、ぐるぐると語り合っていくこと。そういうことが、大事なのだと思う。

*文部科学省2015「小・中学校に通っていない義務教育段階の子供が通う民間の団体・施設に関する調査」

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