客観・中立・公正? オードリーのツッコミ

学生のころ、学生新聞をつくっていた。不登校のことに関わるようになったのも、その取材で東京シューレに行ったことなどがきっかけだった。最初は「取材」のつもりだったのが、「なんで自分は学校に行ってたんだろう?」と、自分のほうが問われてしまって、そこから深く関わるようになっていったのだった。

学生新聞に書いていたものは、いま読んだら青臭くて赤面するほかないような文章だろう。ただ、あのころ共有していたことのひとつに、「客観・中立・公正などあり得ない」ということがある。大手のマスコミは「客観・中立・公正」を装っているけれども、事実の切り方ひとつ、コメントのとり方ひとつにも、絶対に自分(たち)の価値観は反映されてしまっているわけで、それをなかったように見せかけているのはウソだ、ということだ。

実際、報道記事というのは、自分で書いてみると、変な文章だということが、よくわかる。「Aさんはこう言った」「Bさんはこう言った」と書きつつ、肝心の書いている本人自身は、主語として登場しない。だけど、書き手の主張や方向性は確実にある。なんだか、ずるいのだ。それは、報道記事だけではなく、アカデミックな論文なんかでも、同じようなことは言える。あるいは、小沢牧子さんが批判するように、カウンセラーとクライエントの関係や、支援者と被支援者の関係にも、同じことは言えるかもしれない。自分を差し出さず、隠したまま客観を装おう、ずるさがそこにはある。

●イジらせない人は自信がない?

最近、なるにわの参加者に「この本、いいですよ」と勧めてもらった本がある。『社会人大学人見知り学部卒業見込』(若林正恭/角川文庫2015)。お笑い芸人オードリーの若林さんの書いたエッセイだ。これまで、自意識が強すぎて、客観を装おうとするあまり、こじらせてきたことなどが、いろんなエピソードとともに語られていて、おもしろい。そのなかに、こんな一節があった。

みなさんの周りにもイジりにくい人はいるのではないだろうか? イジるし、イジられもする人間は健康だ。問題は、人のことはイジるくせにイジられることは極端に嫌がり隙を見せないようにしている人だ。つまりぼくのようなタイプの人だ。(中略)では、なぜそういう人がイジらせないかというと根本で自信がないからだ。だから、他人をイジって自分の優位性を確認する必要もあるのだ。(中略)自信の持ちづらい時代だ。みんな誰かをイジって自分の優位性を確認したいのかもしれない。

得てして、立場のある人、学歴のある人ほど、自分を差し出さずに、人のことをイジっていることが多いように思う。立場や学歴の装いがあるほど、それを脱いだ自分には自信のないことも多い。そして、その自信のなさを、自分でも見たくないから、隙のないようにしている(不登校やひきこもりの当事者でも、同じことはあるけれども)。安倍首相が批判にムキになってキレるのも、ほんとうは自信がないからなのかもしれない。

青臭くても、偏っていても、自分を差し出している人とは、コミュニケーションができる。でも、それを隠したまま客観を装う人は、タチが悪い。だけど、自分にそういうずるさがないかと言えば、あるなと思う。あるからこそ、自戒しようと思うのだ。自分の隙をつかれてしまったり、イジられたりしたとき、そこでキレてしまうか、素直に受けとめられるか。そこが分かれ目のように思う。自分が人に対するとき、ものを書くとき、ずるいことはしないよう、そしてキレてしまわないよう、自戒していたい。

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