推進する側こそ撤回を求めるべきでは?

2016年に成立した教育機会確保法の3年後の見直しにあたって、馳浩衆議院議員から、当初案にあった「個別学習計画」の復活が提案されたという。

個別学習計画がどういうものかと言うと、保護者が作成して教育委員会に申請し、教育委員会が認定すれば、それが就学義務の履行と認められ、保護者に経済的支援をする(努力規定)というものだった。そして、計画の認定された児童生徒は、学校から籍が外され、教育委員会に籍が置かれ、卒業については、教育委員会が認定して「修了証書」が出されることになっていた。

この法律をめぐって、もっとも議論を呼んだのがこの部分であり、成立した法律は、この個別学習計画を外して成立させたものだった。いわば本丸を外したのだから、ほぼ別の法律になったとも言える。それを復活させようというのだ。

私が当初案について批判したのは、下記の3点だ。

1.義務教育民営化への懸念。
2.権利主体の問題(親と子でニーズは異なること)。
3.教育評価のまなざしが細分化・強化されることによって、子どもの逃げ場が奪われること。

とくに、民営化への懸念は具現化してきている。クラスジャパンプロジェクトpalstep、経済産業省の進める「未来の教室実証事業」など、民営化の動きは津波のように押し寄せている。個別学習計画は、何よりも義務教育民営化のための手段だと言えるだろう。

●あらたな試案の問題点

反対意見は、ほかにもさまざまにあったが、くりかえすのはやめておこう。ここでは、「多様な学び」を推進しようとしている側にとっても、今回の試案で問題になると思われる点を書いておきたい。

今回の試案には、個別学習計画に「学校教育法第21条の10項目」が入っているほか、「ICTを活用した学習ログの蓄積と分析」があり、それをもとに個別学習計画を「常に最適化するサイクルの構築」することが図示されている。


・10項目とは?

学校教育法第21条の10項目というのは、2006年の教育基本法「改正」にともなって、義務教育の達成目標として組み込まれたものだ。くわしくはリンク先を参照してもらうとして、たとえば第3項には「我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」ことが入っている。これについて、たとえば日弁連は「教育の政治的中立性・不偏不党性、自主性・自律性、公正・適正を害するばかりでなく、子どもや保護者の思想信条の自由を侵害することが危惧される」「教育課程に法的拘束力を与えるもの」「多義的な『義務教育目標』の内容を、国が権力をもって一義的に決していくことにより国家による教育内容統制を制度的に可能とするものとなっている」など、大きな懸念を表明していた。(『教育関係3法「改正」法案に関する意見書』日本弁護士連合会2007)

もともと、「多様な学び保障法」を求めてきた人たちは、教育基本法のもとに、学校教育法とは別の法律をつくることを目指してきたはずだ。しかし、個別学習計画が学校教育法の下に統制されるのであれば、それはカタチとしては多様であったとしても、学校教育のカタチが多様化したにすぎなくなるだろう。「多様な学び」を推進してきた人たちは、それでよいのだろうか?

・学習ログ?

2015年の当初案についての議論では、推進する側からは、個別学習計画はタテマエで、実質的には子どもや家庭の裁量で自由にできるという論調が多くあった。たとえば、フリースクール全国ネットワークは「国や行政が管理・監督・指導するものではなく、子どもの学びを支援する立場です。また、計画の実施についても、偏差値や点数等で評価されるようなものではありません」と述べていた。(「多様な教育機会確保法(仮称)Q&A」/『多様な教育機会確保法 ここまできた! 報告会』2015)
しかし、今回の試案では、ICTを活用して学習ログが蓄積され、個別学習計画を常に最適化するサイクルが構築されるという。学習者は、偏差値や点数よりも、さらに精緻に管理されると言っても過言ではないだろう。

・撤回を求めるべきでは

もし、教育機会確保法に、この個別学習計画が盛り込まれることになるとすれば、それは「多様な学び」を学校教育法の下に狭め、その可能性を将来にわたって摘むことになるだろう。「多様な学び」を推進してきた人たちこそ、この個別学習計画案については撤回を求めるべきではないか。そう、問いかけたい。

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