「みんな」「共に」をめぐってー2

公共が崩されて、市場ばかりが拡がってしまうと、生きていくことの土台の安心感が崩れてしまう。それは、80年代のように学校が画一的で抑圧的で、選択することができないから苦しいという文脈では、捉えきれない問題だ。学校を選択できるようにさえなれば、子どもが楽になるというのは、時代錯誤と言ってよいだろう。むしろ、社会に選び・選ばれる関係(=市場)ばかりが拡がっているなかで、生きていくことの土台の安心感が崩れていることの困難さがある。それは、学校に行っている・行っていないにかかわらず、多くの人が直面している問題だろう。だから、公共の場を簡単に市場にゆだねてはいけないというのは、よくわかる。さまざまな分野における民営化や規制緩和が社会にどう影響してきたか、その結果は明らかだろう。

しかし、〈学校=みんな〉は、市場一辺倒の社会への防波堤になるのだろうか。あるいは、多様な教育を求めることは、たんに〈学校=みんな〉を切り崩して市場化することに貢献するだけに終わってしまうのだろうか……。

●〈みんな〉/分類化・市場化/ブラック化


日本で〈みんな〉が抑圧になってきた理由のひとつは、〈みんな〉が〈みんないっしょ〉になってしまうからだろう。常に周囲の目を気にしながら、空気を読んで、浮いてしまわないことが最重要のことになっている。個人がそこにはない。いじめは、その最たるものだろう(このあたりは、すでに言い尽くされていることだが)。

つまり、〈みんな〉に多様性がない。だから、いろんな選択できる場が必要だとなるが、それが分類になってしまうと、〈みんな〉はますます画一化され、息苦しい場になる。養護学校義務化や特別支援教育がそうであったように、異なる他者を排除する方向になってしまうのでは、いろんな場ができたとしても、それは分類化が進むだけで、多様性は失われてしまう。

あるいは、それぞれの〈ニーズ〉に応じたサービスが提供されるとなると、市場が活性化するばかりで、市民活動は市場に呑み込まれてしまう。くどいようだが、フリースクールと広域通信制高校やサポート校との関係は、その最たるものだろう。

そして政府の方針は、分類化や市場化を強める方向にあるのだ。だから、〈みんな〉の場としての学校を手放してはいけない、多様な場をつくるよりも、学校に多様性を取り戻して(あるいは培って)いく必要があるということになる。

しかし、もう少しさかのぼれば、〈みんな〉が学校に独占されてしまったことが、そもそも抑圧的だったのだ。ある時代においては、その抑圧は経済的成功への必要悪として機能していたのだろうが、それが機能しなくなって、いまの学校は悪いところどりのようになってしまっている。ブラック企業の問題と同じだ。学校は、いわばブラック化している。ブラック企業の正社員は、不安定な非正規雇用に対する防波堤にも対抗軸にもなり得ない。

●自律的な足場を

「前門の虎、後門の狼」のようだが、「学校の外を認めろ」というばかりで市場に対する自律性がなければ、公共を切り崩すことに加担するばかりだし、逆に、分類化・市場化に対抗しようとして、ブラック化した学校を対抗軸とするだけでは、子どもたちは苦しいままだろう。市場に対しても、ブラック化した学校に対しても、自律的な足場が必要だ。そしてそれは、選ぶものとしてではなく、ひとつの層としてあるものだと私は思っている。(つづく)

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