「みんな」と「専門家」と、この社会の素性と

人に言われて、私がカチンときてしまうことが、ふたつある(もっとあるかもしれないが、とりあえず)。

ひとつは、「みなさん、そうしてますよ」。
もうひとつは、「専門家がそう言ってるんですよ」。

そう言われると、「それで、あなた自身はどう考えているんですか?」とツッコミたくなる。でも、そう問い返しても、たいがいは「いや、みなさん、そうしてますから」「専門家がそう言っているんですから」とくり返されてしまうことが大半のように思う。

どちらの場合も、「みなさん」や「専門家」に判断をあずけてしまって自分の頭で考えようとせず、それでいて他者を従わせようとしているから、カチンと来るのだと思う。

新型コロナウィルスの感染拡大で、その傾向はセットになったうえ、極大化しているように思える。私は、それが感染拡大防止のために必要だとしても、この傾向がとても怖い。なぜなら、そこにひとりひとりの判断がなければ、それはいかようにでも暴走してしまうように思えるからだ。

危機的状況のときは、その人の素性があらわれてしまうように、その社会の素性もあらわれてしまうのかもしれない。


●「専門家」と「素人」

「みなさん」のあやうさについては、言うまでもないだろう。とりわけ日本は「世間」が判断基準になっているので、もともと個人と社会の緊張関係が弱い。たとえば、「自粛警察」などの動きは、たいへんあやういと感じる人も多いだろう。

しかし、「専門家」については、その判断に従うのは当然だと思う人は多いのではないだろうか。素人判断は危ない、病気のことは医者に、法律のことは弁護士に、教育のことは教師に、感染症のことは疫学の専門家に。それは当然のことではないかと。

たしかに、その通りと思うところはある。私だって、病気になって医者に行くことはあるし、法律のことで弁護士に相談することはある。専門家の知見や技術によって助かることはある。コロナウィルスのことだって、わからないことだらけで、専門家の意見は聞くべきだと思っている。ただ、判断を丸投げして専門家にあずけるようなことはしたくない。あくまで、判断の主体は自分にある。専門家は、自分にわからないことを説明してくれ、考えさせてくれる存在で、どうしても判断のつかないことは信頼してあずけるしかないが、それは最後のところにあるものではないかと思っている。

たとえば、不登校にしたって、いわゆる専門家が、怠けだ、甘えだ、親の育て方の問題だと言ってきて、それに子どもや親たちは苦しめられてきたのだ。専門家こそが、問題を生み出してきたのだと言えるが、それを変えてきたのは、「素人」の親たちだった。

「学校に行かない子と親の会(大阪)」の世話人をしてきた山田潤(元定時制高校教員)は、親の会に対して専門家から「素人ばかりで月に1回集まって何になる」と言われることもままあったという。しかし、むしろ専門家から離れたところで、親たちが自主的に集まり語り合ってきたことにこそ、大きな意味があるのだと山田は言っていた。不登校の親の会というのは、親たちが専門家の言うことを鵜呑みにせず、自分たちを縛ってきた価値観を問い直し、そこから自分たちで考え合う場をつくったことにこそ、大きな意義があったのだろう。


●商品関係=社会ではない

しかし、逆のこともある。たとえば、フリースクールなどを運営していて、専門家だからおまかせしますと思われてしまったり、その一面で、ああ、商品としてみなされているのだな、と感じることがある。お金を払ったぶんのサービスを求められている。あるいは、何かトラブルなどが生じたとき、こちらは、そこでいっしょに考え合いたいと思うのだが、なかなか、それが難しいことも多い。消費者はクレームは言うことはあれど、そこでいっしょに考え合うことはなく、よりよいサービスを求めて別の商品を買うことになる。

消費者ニーズに応えるのが専門家で、そうでなければ、事業は成り立たないと言われるかもしれない。たしかに、そういう面もあるだろう。でも、世の中の「仕事」なり「活動」なりは、商品関係だけで成り立っているわけではないはずだ。いつのまにか、商品関係だけが社会だという感覚が行きわたってしまって、そうではない関係はノスタルジックであったり、リアリティのないものになってしまっている。

ひと世代前までの人たちは、商品化される前の領域を肌で知っていて、そこに足場を置いて、商品社会を批判していたように思う。しかし、いまや、多くの人にとって、そういう足場はなくなってしまっている。

でも、その抵抗の足場は、きっと身近なところにつくることができるのだと思う。たとえば、いま、さまざまな活動が自粛させられているなかで、日常のささやかな営みを楽しもうという動きもある。ご飯を少していねいにつくる、掃除をする、マスクをつくる、散歩をする。そうした、ささやかな営みのなかに、商品関係への抵抗の芽がある。

それは、あっというまに吹き飛ばされてしまうものかもしれないが、いまの社会の怖さは、社会が商品化されきっていて、それゆえのもろさであることは、多くの人が感じとっていることのように思う。現在の危機的状況のなか、国家の役割も問われているが、それ以上に、この社会の素性が問われているのだと思う。そこで必要なのは、まずは商品関係ではない営みや関係の手応えや実感ではないだろうか。「新しい生活様式」というならば、そういう手応えや実感こそを大事にしたい。

未曾有の経済変動のなかで、何を悠長なことをと思われるかもしれないし、自分でも、そう思う。ここに書いていることは夢みたいな話かもしれない。でも、その夢を見ているのは、私ひとりだけじゃないとイマジンしたい。

いらすとや」というサイトで「散歩」で検索して出てきたイラスト

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