名前の階層とズレ

先日、NHKラジオを聴いていたら、今尾恵介さん(地図研究家)をゲストに、駅名の話をしていた(武内陶子のごごカフェ/2020年5月21日)。今尾さんはその昔、東京駅の名前が変だと、違和感を覚えていたという。丸ノ内線に乗っていると、池袋に始まり、本郷三丁目、御茶ノ水、大手町などときて、いきなり東京駅となる。ほかの駅名は町の名前などで、ぜんぶ東京にある駅なのに、東京駅だけ、ドーンと東京を名乗っている。それがなぜかというと、東京駅はほかの地方と接続しているので、地名の「階層」がちがうということだそうだ。それに比して大阪は、JRに新大阪駅や大阪駅はあっても、ローカルを結ぶ私鉄や地下鉄では梅田を名乗っていて(2019年10月から阪急と阪神は大阪梅田駅になったそうですが)、地名の階層を使い分けているということだそうだ。

東京駅は、おそらく東京以外の利用者のほうが多いだろう。東京と言ったって、日野市や檜原村や小笠原諸島まである。多様な東京都民からすると、東京駅に代表づらしてほしくないかもしれないが、あくまで、それはほかの地方からの指標として名づけられたものということなのだろう。

すとんと腑に落ちる話で、そうか、名前には階層があるのだなと納得した。それは不登校やひきこもりなどの名前に関しても、同じことが言えるだろう(あらゆるマイノリティの名前がそうかもしれない)。不登校やひきこもりの経験は多様で、けっして一括りにできるものではない。そもそも、不登校にしても、ひきこもりにしても、当事者が名乗り始めたものではなく、「専門家」が外から名づけたものだ。そこには、治療や訓練をすべきものというまなざしが入っており、それに対して、「不登校は病気じゃない」「ひきこもりのゴールは就労じゃない」など、さまざまなカウンターの声があげられてきた。

逆説的だが、名づけられたことで、当事者の仲間と出会えたり、「病気じゃない」といったカウンターの声があげられたりした面はある。名づけには現実を変える力もある。ただ、そもそも、その名づけは当事者からのものではなく、外からのものだ。だから、名づけられた側には、常に違和感やズレが生じる。あるいは、マスコミなどでマジョリティに向かって代弁する当事者が出てくると、その語りが、意図せず、ほかの当事者を抑圧してしまう面も持つ。そうしたズレは、ひずみが溜まると、ときに活断層型地震のように、激しい揺れを引き起こす。それは、名前の階層差から来るズレでもあるのだろう。


●「いまこそ語ろう、それぞれのひきこもり」を読んで

最近、『こころの科学』の増刊号で「いまこそ語ろう、それぞれのひきこもり」という特集が組まれた。年齢も地域もさまざまな16人の当事者が書いており、たいへん読み応えがあった。上記のような違和感、ズレ、ひずみについても、多くの人が触れており、編集人による人選に疑問を呈する人までいて(泉翔さん)、それぞれが率直に書かれていることがよかった。

人によって、文章の宛先は異なっているのだろう。世間一般やマスメディアに対して「ひきこもり」への理解を求めている人もいれば、支援者や医療者に向けて書いている人もいれば、当事者に向けて書いている人もいる。言うなれば、そこには電車の路線のちがいのようなものがある。どこに向かう電車かによって、駅名の階層が異なるように、誰に向けて書いているかによって、語りの階層に差がある。

私自身は、大ざっぱなくくりには抵抗感を覚えてしまうので、「東京駅」みたいな雑な駅名よりも「本郷三丁目」のようなローカルな駅名のほうが好きだし、マジョリティに向けてテンプレ化された語りよりも、大ざっぱなくくりを揺るがす、ズレやひずみに敏感な語りに共感するところがある。ただ、名前の階層という理解を入れると、そのズレが不協和音ではなく、ポリフォニー(多声音楽)として聞こえてくるように思った。ズレを溜めこんで(あるいは抑えこんで)活断層地震のような大きな揺れにするのではなく、ズレから生じるざわめきを楽しめるようでありたい。


コメント