自分を道具にしてないか

人のことを道具(手段)のように扱ってはいけないと、哲学者のカントは言っていたが、自分のことも道具のように扱ってはいけないのではないか、と思うことがある。

たとえば、不登校経験者やひきこもりの当事者などが自分の経験を語る(あるいは書く)というとき、最初は、それまで言葉にならなかったものが、ようやく言葉になって、語ることそのものが目的というか、それ自体に意義があるように思えることがある。結果として、その言葉を聴いた人に影響があったり、何かの役に立つことはあっても、それは結果であって、最初から、その目的のために語られたことではない。

しかし、そうした言葉が、いつのまにか道具となってしまうことがある。シンポジウムに登壇する、講演に呼ばれる、執筆を依頼されるといったことがくり返されていくと、語ることは、自分自身にとっての意義は薄れていって、ややもすると人を説得する(あるいは聴衆にウケる)ための道具となってしまう。

なんというか、言葉が乾いていくのだ。そして、乾いた言葉ほど、道具としては扱いやすくなる。流暢に、テキパキと、迷いなく語られる言葉たち。そうした言葉がメディアなどでは取り上げられやすい。でも、その実、そうした乾いた言葉は、湿り気や、揺らぎや、言葉になる以前にあったモヤモヤなどを失ってしまって、他者に響く力も失ってしまっていくようにも思える。

もちろん、道具的な側面のすべてが悪いということではない。当事者からの声が社会を動かしていく力になることはあるし、その意義は大きい。しかし、どこかに分水嶺のようなものがあって、ある線を越えてしまうと、語ることは自分にとっての意義を失って、道具としてばかり機能するようになる。そして、その空虚さがあるからこそ、それを埋めるために、ますます道具として語るようになり、エスカレートしていく。それは、その人自身にとって、とても苦しいことのように思えてしまう。さらに言えば、自分を道具にしてしまっている人は、他者をも道具として扱うようになりかねない。やがて、そのひずみはどこかで亀裂をあらわにする。

こんなことを書くのも、私自身、シンポジウムを企画したり、執筆を依頼したり、インタビューをしたり、さんざんしてきたからだ。それが無意味だったとか、有害だったと思っているわけではないが、このあたりのあやうさは、常にあったように思う。そのあやうさに無自覚になってしまってはいけないのだと思う。そして、自分にも問い続けたい。自分を道具にしてないか。他者を道具にしてはいないか。カントふうに言うならば、問い続けることが「理性」なのかもしれない。


コメント