夏、涼、寂。

真夏というより魔夏。猛暑のあまり朦朧とする毎日。夜も寝苦しく眠りは浅く、内臓も疲れ気味。ギンギンギラギラの太陽に、干からびてしまうんです、僕は。そんなグルグルと朦朧とした頭に、ふと思い起こした言葉がある。

夏は涼しい

冷夏ならともかく、この猛暑に何を寝言をと思われるかもしれないが、これは児童精神科医の渡辺位(1925―2009)が、たしか20年ほど前に講演で話していたことだ。

夏は暑いからこそ、一陣の風に涼しさを感じる、あるいはクーラーの効いた部屋に入ったときに、涼しいと感じる。秋が涼しいと感じるのも、夏が暑いからこそで、ずっと秋の気温だったら、涼しいとも感じないのではないか。すべての物事は、関係のうえに成り立っているのであって、固定したものではない。ところが、子どもが不登校になったりすると、その関係を見ないで、あるいは目の前の子どものことを見ないで、「不登校」の子どもになってしまったと、まるでお化けにでもなってしまったように見てしまう。そうやって枠づけして物事を見ていたら、子どものことはわからない、というような話だった(と記憶している)。

たしかに、真夏、汗だくになった身体に、一陣の風はなんとも心地よく、涼しさにありがたさを覚える。風をあつめて蒼空を翔けたくなる。しかし、そうは言っても、夏が苦手な私は、秋がたいへん待ち遠しい。いまは猛暑の盛りだが、少しずつ日も短くなっていて、ひっそりと秋の気配は差し込んでいる。もうすぐ、虫の音も変わるだろう。

と、ここまで書いたところで、もうひとつ、別の言葉を思い出した。

秋サブ
夏ヲ経テ


これは、民藝運動で知られる柳宗悦(1889―1961)の晩年の言葉だ。自身で、次のように解説している。

「サブ」とは「寂ぶ」で、閑寂の様である。寂は仏法の理念、秋はその姿を示すものである。「寂」はわびし、さびしなどと読まれて、哀調を帯びはするが、「寂」の真意は、執心の煩悩が休む様なのである。二元にまつわるくさぐさのもつれが、解け去ることなのである。だがこんな境地に到り得るのも、熾烈な夏を経てである。それは夏への否定ではなく、夏のおのづからの帰趣なのである。だからおごる夏も静かな秋に、その安らひを見出すのである。夏は秋を讃へる夏なのである。秋は夏を迎へ取る秋なのである。さう想へないであらうか。(『柳宗悦集第二巻』春秋社1973)

私も、すっかり中年となったものの、まだまだ「寂」にはいたれそうにない。かといって、人生の「夏」だとも思えないが、しばらくは「くさぐさのもつれ」に葛藤していくほかないのだろう。やがては「秋」にいたれますように。

こうして、ふと昔聴いた話や読んだ一節を思い出すのは、真夏の陽射しが真っ黒な影をくっきりと浮かび上がらせるので、そこに何かが引き寄せられたのかもしれない。

もうすぐ、お盆だ。

先日、とあるブナ林にて。
 

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