健康ハロー、学歴ハロー

 『スーパーサイズ・ミー2:ホーリーチキン!』という映画を観た。前作『スーパーサイズ・ミー』は、1日3食マクドナルドのハンバーガーだけを食べ続けるとどうなるのかを、監督が自分自身を実験台にして撮ったドキュメンタリーだったが、今回は、鶏肉をテーマに、ファーストフード店やブロイラー業者の構造的問題に踏み込んだ映画だった。


(※以下、ネタバレ注意。)

前作の公開が2004年。その後、ファーストフード店は「オーガニック」「ナチュラル」「人道的な飼育」などを謳うようになり、一見、健康志向に転じているように見える。しかし、実際には何も変わらず、イメージだけを変えて売っている。本作では、その実態を、監督自身がファーストフード店をつくるというプロセスを通じて、あきらかにしていた。

食用の鶏(ブロイラー)の置かれている状況は、残酷きわまりない。効率のために生命が極限まで操作されている。しかも、年々ひどくなっているようだ。しかし、資本の側は「オーガニック」「ナチュラル」「人道的な飼育」といった、もともとは社会運動で語られきた言葉を巧みに採り入れ、法や規制をくぐり抜け、イメージや物語をつくっている。

監督がファーストフード店の開業準備で相談したコンサルタントは、事業を成功させるためには「物語が必要だ」と話す。私たちは、実態としては健康に疑わしい食べ物を口にしつつ、そのイメージや物語を消費している。そして、それゆえに、かえって消費量は増えてしまう(危険だと思うよりも健康的だと思うほうが消費量が増えてしまう)。

そうした効果のことを、「健康ハロー」というそうだ。「ハロー(halo)」というのは、光背、天使の輪などのことで、「ハロー効果」というのは、ある一面でもって、その人物や物事の全体を好ましく思い込むことを言う(逆の場合、ある一面ですべてをマイナスイメージで見てしまう場合もある)。たとえば、CMやパッケージで健康的なイメージの映像や文言を見てしまうと、実態をちゃんと見るのではなく、きっと健康的なんだと思い込んでしまう。そこには、大企業なんだから大丈夫だろうという「大企業ハロー」も働いているだろう。しかし、それは意図的に仕組まれた広告戦略だ。

そして、映画では、ブロイラー業者の搾取構造もあきらかにされ、鶏だけではなく、そこで働く人たちが極限まで搾取され、支配されているようすが描かれている。安い鶏肉は、こうした構造のなかで生産され、消費され、にもかかわらず、私たちはイメージに目をくらまされている……。

たとえば、スーパーでは鶏肉は「若鶏」と表示されているが、ブロイラーは、産まれてからわずか50日程度で出荷される。無理な品種改良と苛酷な生育環境のため、それ以上は生きられない。一方、鶏の自然界での寿命は約10年ということだ。「若鶏」が、そういう実態をあらわしているとは、一般には知られていない(この点は生田武志『いのちへの礼儀』を参照)。

食品だけではなく、CMやメディアなどで垂れ流されているイメージや物語は、常に疑わなければならないのだろう。


●学歴ハロー

唐突だが、こうした問題を、学歴問題に置き換えて考えてみたい。たとえば、世間では高学歴だと人格者のように思われたり、低学歴だと人間としてダメだと思われたりする。これを仮に「学歴ハロー」とでも言っておこう。

しかし、大学と言っても、名前ばかりが「ハロー効果」を持っていて、その実態はどうかと言えば疑わしい。電車や駅には大学の広告が山ほどあるが、どれもイメージを売っている。実際、苦労して入ってみた大学に落胆する学生も多いし、あるいは、自分が大学で学んでいる内実はどうでもよくて、就職のための「ハロー効果」をお金で買っているということも多いだろう。しかし学費は高額で、奨学金という名前の借金を抱え、その返済のために最低賃金でアルバイトで基幹労働をさせられ、あげく授業には出ることもできなくなり、単位を落としてしまう学生もいる。大学生は何重にも搾取されている。近年、低所得世帯には給付型奨学金や減免制度ができ、以前に比べれば改善されてはいるが、そもそもは大学のあり方自体が大きく問われている(コロナによって、大学の意味はますます問われている)。構造をそのままに、個人を支援するというだけでは済まない問題だろう。


●対抗運動の言説は

一方には、低学歴だったり、不登校だったりすると、それだけで人間としてダメであるかのようにまなざされてしまう問題がある。周囲からまなざされるだけではなく、自分自身でもそのまなざしを内面化し、自己否定していることも多い。そして、それに対抗する不登校の当事者運動では、「学校に行かなくても大丈夫」といった言説が語られてきた。しかし、その「大丈夫」が、不登校経験者の一部の成功例を引き合いに出して不登校を肯定するようなものであれば、その問題はたいへん大きいと言わざるを得ない。なぜなら、そこでは学歴差別などの構造的問題が見えにくくされ、あるいは、そこで苦しんでいる当事者のことは不可視化され、あたかも個人的努力によって、問題を解決できるかのように錯覚させてしまうからだ。言うなれば、「成功例ハロー」とでも言おうか。あるいは、有名人が不登校のことを肯定的に語ってくれている、だから不登校でも大丈夫なんだ、といった場合も同じことは言える。こうしたイメージ戦略は、運動の初期においては必要な面もあるかもしれないが(私自身、加担していたのだが)、いいかげん手放さなければならない。しかし、いまだにくり返されている……。

また、いまや「自由」「個性」「多様な学び」といった、不登校やフリースクールの運動のなかで語られてきた言葉は、巧みに資本に採り入れられている。それらの言葉は、教育産業の営利のためのイメージ戦略となっているだけではなく、構造的問題を不可視化し、子どもに果てしない個人的努力を強いるための道具と化している。

この状況を変えていくのは容易ではないが、まずは垂れ流されるイメージや物語を鵜呑みにせず、あるいは対抗するのに別のイメージをふりまくのでもなく、実態をきちんと見ていくことが必要だろう。しかし、実態をよく見れば、自分の生活の足下が問われる。食べ物の問題は毎日のことだし、学歴の問題にしても、この社会システムの一部であって、その外部に出ることはできない。しかし、システムにからめとられながらも、部分的にからめとられない層をつくって、抵抗していくことはできるはずだ。ただ、それはひとりでできることではない。そのためには、ともに考え合える人たちがいて、対話していくことが必要にちがいない。希望は、まやかしのイメージや物語のなかにではなく、現実を直視し、そこから考え合う対話のなかにある。

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