目が笑ってない。

不登校あるあるのエピソードに、親の「目が笑ってない」という話がある。学校に行かなくなった子の親が、親の会に参加したり、メディアや本などから情報を得たりして、「学校に行かなくてもいい」と頭で理解して、それを子どもに伝えたりする。しかし、「目が笑ってない」。子どもが「明日から学校に行ってみようかな」と言ったりすると、パーッと明るい顔になって、本音がどこにあるかは、全身から発するオーラで伝わってしまっている。にもかかわらず、言葉では「学校に行かなくてもいい」などと言うものだから、子どもからすると、ダブルバインド(二重拘束)になってしまって、どうしていいか、わからなくなってしまう。不登校にかぎらず、親子のあいだでは、こういうことは多いように思う。

ほかにも、よく聞いた話では、自転車をとめる音、ドアの開け閉めの音、階段の足音などなどで、親の本音が伝わってくる、というものもあった。人は、自分で意識している以上に、言外で人に伝えているものがあるのだろう。とくに、子どもは、そうした気配には敏感だから、ゴマカシはきかない。子どもと接する大人は、その本音は見抜かれていると思ったほうがいい。見抜かれていることにさえ気づかない大人も多いが、その言葉は、信用されていない、あるいは届いていないのだと思う。それでも、力関係のなかで、大人の言うことを子どもに聞かせてしまっている、ということが多いのではないだろうか。

ただ、これは子どもにかぎった話ではなくて、大人どうしでも、そうしたことはある。結局のところ、自分の本音の部分は相手に伝わっていて、それを言葉でカムフラージュできると思っているうちは、信頼関係はできない。言葉のカムフラージュを解いて、自分を相手に差し出すことができたとき、初めて信頼関係はできるのかもしれない。それは、援助職などの現場では、常に問われていることのように思う。


◎問い直しの先に

自分の本音と言葉が離れてしまってはいないか。自分をゴマカしていないか。あたりまえのようで、これはとても難しいことなのだと思う。ただ、これが一対一の関係であれば、あるいは生身の声が届くような小さな場における関係であれば、ていねいに考えていくことはできるように思う。しかし、それが社会運動の言葉となったり、メディアで発言したりということになると、言葉はどんどん本音から離れていきやすい。その言葉は、世間に受けいれられるための(あるいは世間を動かすための)道具となり、手段となり、語っている自分自身の本音さえも抑圧しかねない。あるいは、そうした言葉にとって、不都合な事実、さまざまな当事者の思いなどを抑圧していく。そういうことに鈍感になってはいけない、居直ってはいけないと思うのだが、居直ってしまった人こそが、運動を牽引していたり、メディアに出ていたりすることも、ままあるように思う……。

しかし、そこで抑圧されたものは、言外に伝わってしまうものだし、どんなにとりつくろったとしても、とりつくろいきれるものではない。抑圧されたものは、かならず表に出てくる。そして、それはピンチなのではなくて、問い直しのチャンスなのだと思う。そういう問い直しができなければ、その先に希望はない。逆に言えば、そういう問い直しの先にこそ、希望はあるのだと思う。


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