99%のために

メディアで不登校について取り上げられる際、くり返されるパターンのひとつに、成功例パターンがある。学校に行かなくなって親や周囲から否定され、自分自身、学校だけがすべてと思って自分を否定して、死を思うほど追いつめられていたが、フリースクールやホームエデュケーションなどに出会って救われた、学校以外でも子どもの学び育つ場はあって、そうした道を経て、いまは立派に社会人としてやっている人は多くいる、だから学校には無理に行かなくてもいい、学校に行かなくても社会ではやっていける、というような。私自身、こうした言説に加担してきたので、くり返し戒めるのだが、ステレオタイプと化したこうした言説は、解決になるどころか、それ自体が問題の一部だと言っていいだろう。

最近、『99%のためのフェミニズム宣言』という本を読んだのだが、フェミニズムでも、一部の成功者を引き合いに出して、女性の地位向上を謳うようなフェミニズムがあって、それを「リベラル・フェミニズム」というそうだ。そのリベラル・フェミニズムを、この宣言は次のように厳しく批判する。

リベラル・フェミニズムは、解決策を提示することはおろか、それ自体が問題の一部なのである。グローバル・ノースにおける経営者層に集中するそれは、「体制の一員になる(leaning-in)」ことと「ガラスの天井を打ち破る(cracking the glass ceiling)」ことを重要視する。特権を持つごく少数の女性たちが企業と軍隊の出世階段をのぼっていけるようになるという、そのことばかりに尽力した結果、リベラル・フェミニズムは市場中心の平等観を提唱することになった。その平等観は、現在世の中に蔓延する「多様性」に対する企業の熱意と完璧に符合する。「差別」を糾弾し、「選択の自由」を掲げているとはいえ、リベラル・フェミニズムは大多数の女性たちから自由とエンパワメントを奪う社会経済的なしがらみに取り組むことを頑として避けている。それがほんとうに求めているのは、平等ではなく能力主義なのだ。社会における序列をなくすために働きかけるのではなく、序列を「多様化」し、「勇気を与えてくれるような」「才能ある」女性たちがトップへと駆け上がることを目指すのである。女性全体を単純に「過小評価されている」集団とみなすことによって、リベラル・フェミニズムの提唱者たちは少数の特権的な人々が同じ階級の男性たちと同等の地位や給料を確実に得られるようにしようとする。もちろんその恩恵を受けられるのは、すでに社会的、文化的、経済的に相当なアドバンテージを有する者たちである。その他の者はみな、地下室から出られないままなのだ。
(略)
リベラル・フェミニズムは階級や人種に対して無関心を貫き、我々の信念をエリート主義や個人主義につなげてしまう。またフェミニズムを「孤立無援」の運動に仕立て上げることで、私たちと多数を脅かす方策とを結びつけ、その方策に対抗する闘いから私たちを切り離してしまう。端的に言って、リベラル・フェミニズムはフェミニズムの名をおとしめたのだ。

ほぼ相似形で、同じことが不登校についても言えるだろう。学校に行かなくても社会でやっていけるという言説パターンは、不登校への差別偏見、過小評価を是正しようとする一方で、市場中心の平等観に立ち、新自由主義の社会経済的な問題を問うことなく、むしろ能力主義を強化してきた。社会における序列をなくすために働きかけるのではなく、序列を「多様化」し、「勇気を与えてくれるような」「才能ある」不登校経験者が成功する物語として語られてきた。しかし、成功の恩恵を受けられるのは、すでに社会的、文化的、経済的に相当なアドバンテージを有する者たちであって、その他の者はみな、地下室から出られないままにいる。

高学歴者の高収入は、低学歴者たちを搾取することによって成り立っている(それがケア労働などエッセンシャルワークであることも多い)。そうした学校が生み出す序列や格差の問題を問わずに、選択の問題にすり替えるリベラル・不登校イズムは、それ自体が問題の一部だろう(常野雄次郎さんは早くからこの問題を問い続けていた)。不登校=低学歴というわけではないが、「学校に行かなくても大丈夫」と言うのであれば、この社会経済の問題を根本から問わなければ、「大丈夫」にはなり得ない。

『99%のためのフェミニズム宣言』は、次のようにも言う。

このフェミニズムは、これまで定義されてきたような「女性の問題」のうちに留まることはない。搾取され、支配され、抑圧されてきたすべての人々のために立ち上がることで、人類全体の希望の息吹になろうとするものである。私たちが99%のためのフェミニズムと呼ぶのはそのためだ。

フェミニズムにかぎらず、不登校にかぎらず、さまざまなマイノリティの問題は、それぞれの文脈を大事にしながらも、そのマイノリティの問題のうちに留まるのではなく、すべての人々のために立ち上がることが必要だろう。不登校を認めてほしいとか、学校外の学び育ちを認めてほしいというような言説は、破棄しなければならない。不登校することによって直面するさまざまな問題は、いまの社会で搾取され、支配され、抑圧されている、すべての人々の問題とつながっているのだから。



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