ボーッとできることに居直らず

チコちゃんの「ボーっと生きてんじゃねえよ!」ではないが、ボーッと生きていられるのは、自分がマジョリティの側にいる場合のように思う。たとえば、左利きの人は、電話だとか、改札だとか、ハサミだとか、さまざまな場面で不便があるというが、それは右利きの人には気づきにくい困難さだろう。あるいは、日本という国に日本人として生きていれば、外国人と比べれば、ボーッと生きていられる。言葉はもちろんのこと、社会通念だとか、空気のようにあたりまえにしている無意識的な文化や環境に、さして違和感を覚えることなく過ごせる。ところが、自分が外国に行くと、ふだんであればボーッとしていてすむことでも、意識せざるを得ないことが格段に増えるし、逆に、ふだん自分が無意識にあたりまえのものとしてきたことに気づいたりする。外国でなくても、たとえば住む地域が変わると、ずいぶん発見があったりする。あるいは、ちょっとケガをしたとか、病気になったときなども、ふだんはボーッとしていてもできていたことが困難になって、そこで気づくことがある。


●コロナ疲れは

少し話の筋は変わるが、コロナ禍においても、ふだんはボーッとしていてもよかったことを、いちいち意識しないといけなくなった。コロナ疲れは、ボーッとできないことの疲れでもあるだろう。あるいは、オンラインのミーティングなどでも、対面のときには空気のように感じとっていたものが感じられず、私なんぞは、どっと疲れてしまう。しかし、誰にとっても対面のコミュニケーションのほうがよいのかといえば、一概にそうとも言えない。たとえば、発達障害の自助グループでは、空気を読んだり、しゃべるのは苦手だが、文章化は得意という人も多く、むしろオンラインによってコミュニケーションが活発になったという話も聞いた。自分がボーッとできる場というのは、ほかの人にとっては苦労があったりする。しかし、そういうことには、なかなか気づきにくいように思う。

自分がマジョリティの側にいることというのは、自覚しにくいことだし、知らないうちに他者を抑圧してしまっていることもある。それをすべて意識化するというのは、無理なことだろう。それゆえ、マイノリティへの偏見や無理解などは、はしなくも漏れ出てしまうことがある。


●マイクロアグレッション

少し前に、『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(デラルド・ウィン・スー/明石書店2020))という本を読んで、私のかかわる居場所でも読書会をしたのだが、マイクロアグレッション(直訳すれば「小さな攻撃」)というのは、無意識的なバイアスゆえに、攻撃する意図はなくても相手を傷つけてしまうことを言うそうだ。私に身近な例に引き寄せてみたら、たとえば「あなたはぜんぜん不登校の子には見えないよ、ふつうの子に見える」といったものも、マイクロアグレッションになるだろうか。しかし、発言した側は、傷つける意図はないので、指摘されても、むっとして防衛的になってしまうことが多い。思い返せば、そういうことは、身近にあふれているように思う。

マイクロアグレッションというのは、誰しもがやってしまうことでもあり、「まちがってはいけない」と身構えるよりは、柔軟に、対話に開かれることが大事なのだろう。同書のなかでも、「きっと多くの場合に必要なのは、シンプルに『ごめんなさい』と伝えること」だと書かれていた。でも、実際には、それがなかなか難しい。マイクロアグレッションは、それを被害として認識することが難しい問題でもあるというが、ある意味では、被害を認識するよりも、加害を認識することのほうがさらに難しいようにも思う。

指摘された側が防衛的になってしまうと、訴えた側は、その壁を壊そうと、さらに強く言わざるを得なくなる。しかし、それでは対話は成り立たず、緊張感と防衛意識ばかりが強まっていってしまう。結果として、マジョリティの意識はかえって強化されてしまいかねない。かといって、やんわりと伝えるだけでは、何も変わらない。

結局のところ、この問題において問われているのは、マジョリティの側のふだんの態度なのだろう。ふだんから、自分の認識を自明視せずに、自分に対する批判や違和感の表明に対して耳が開かれていること。そういう態度があれば、いざ問題が顕在化したときに、それを対話に開いていくこともできるのではないだろうか。


●ニューノーマル

ただ、マジョリティというのも、固定して、そういう人たちがいるということではない。ひとつのマジョリティ性を持つ人が、ほかの側面ではマイノリティ性を持つことはある(逆もまた然り)。しかし、自分のマジョリティ性については自覚しにくいので、批判や違和感の表明があっても、それを言うほうが過敏だったり過剰であるように感じてしまう。コロナ疲れではないが、ボーッとしていても通用していたことを、いちいち意識しないといけないというのは、疲れることでもあるだろう。そのとき、そこで居直ってしまうのではなく、異なるリアリティの人がいるということを尊重して、「合理的配慮」のようなものを入れることができるかどうか、が問われる。それは、学校や職場などではもちろんのこと、たとえば自助グループのような場においても必要なことだろう。ひとつのマイノリティ性で集まっているとしても、そこに集まっている人には複数の属性や文脈があって、それぞれにリアリティは異なっている。

そういうことをめんどうと思うのではなく、そこにある気づきや発見を歓迎できるようでありたい。それが「ニューノーマル」になっていけば、たんにマイクロアグレッションを抑止するというだけではなくて、それぞれの場の対話は活性化するし、ひいては社会のあり方も変わっていくように思う。とはいえ、ボーッとしていたいマジョリティ性の岩盤は固そうだけれども……。 

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