怒りを憎しみへと矮小化させないこと

自分の書いたものについて、その内容で批判されることは歓迎しているし、批判は大事なことだと思っている。しかし、内容についてはまったく触れられないまま、書いたことで傷ついた人がいるといったことで、書いたことが問題にされたり、やめるように言われることがある。もちろん、それが誹謗中傷や人格攻撃になっているということであれば、その声を受けとめ、立ち止まらないといけないだろう。しかし、どうもそういうことではなく、批判すること自体に傷つけられたと言われることが、ままあるように思う。

SNSなどにおける「炎上」の場合も、それが暴力(誹謗中傷や人格攻撃)の増幅なのか、批判の増幅なのかは大事なところで、いずれにしても増幅のあやうさはあるが、批判を抑止したいがために、それを暴力だと言い立てることもあるように思う。


●暴力/対決、憎しみ/怒り

ふと、映画『遠い夜明け』のワンシーンを思い出した。『遠い夜明け』は、南アフリカのアパルトヘイトに対して闘っていたスティーブ・ビコを描いた映画だが、そのなかで、裁判にかけられたビコと裁判官のあいだで、下記のようなやりとりがあった。

裁判官:つまり君は黒人を暴力に駆り立てるわけだ。

ビコ:我々の運動は暴力には反対してます。

裁判官:だが君は対決を叫んでおる!

ビコ:ええ、対決を求めます。

裁判官:それは暴力を求めることなのでは?

ビコ:いま、私とあなたは対決していますが、どこに暴力が?

裁判官:……。


対決することは、暴力ではない。支配者層は、問題が明らかにされることをおそれ、対決自体を暴力だとして、問題を提起する側を暴力的だと指弾する。あげく、露骨な暴力で弾圧し、それを暴力を抑止するためだとして正当化する。

また、アメリカで人種差別と闘っていたマルコムXは、マスメディアでは「憎しみを煽るテロリスト」とされていたという。しかし、酒井隆史(社会学者)は怒りと憎しみは異なるとして、次のように言う。

マルコムは、憎しみを煽ったというのではなく、むしろ、黒人たちの自己や他者にむかう憎しみを怒りに変えたというべきです。この二つの感情はわかちがたくからまりあっているとはいえ、憎しみは状況総体や制度ではなく特定の人間や集団にむかいがちです。憎しみは、その感情をもたらす原因に遡り、根源的次元から根絶しようというのではなく、その結果であるもの――人間、集団―を排撃したり殲滅することでカタルシスをえるという行動をみちびく傾向を強く帯びた感情だとおもいます。それに対して、怒りは憎しみそのものを生みだしている、より広い条件にむかう、より思慮にひらかれた傾向があるようにおもわれるのです。権力はこの憎しみという感情のもつ傾向につけこみ活用します。(酒井隆史『暴力の哲学』河出文庫2016)


●困難さをふまえたうえで

たとえば、いじめや性暴力の被害者が裁判を起こすというとき、そこにあるのは、たんに一事件の被害者として加害者を憎むだけではなく、それが生じた原因に遡り、その根本を問い直すという意向がある場合も多いように思う。しかし、当の被害者にとっては、憎しみと怒りはわかちがたくからまりあっていて、そう一筋縄ではいかない。周囲は、その困難さをふまえたうえで、それを受けとめ、ともに考えていく道筋をつくっていかなければならないだろう。仮に、憎しみが表に出ることがあったとしても、その面だけをとりあげて問題を矮小化してはならない。あるいは、その憎しみの面に共鳴してしまって、憎しみばかりを増幅させてもいけないだろう。そうなった場合、矮小化する側は、得てして冷静さやリベラルを装って、そこにつけこみ、指弾する。

時間はかかっても、紆余曲折はあっても、憎しみを怒りへと変えていくこと。問題の根本を問い、より広い条件、より思慮にひらかれていくこと。何か被害が生じたとき、そこに希望があるとすれば、そういう道筋にこそあるのだと思う。祈りを込めて、そう言いたい。


 

コメント

  1. 山下さん、こんにちは。

    自分が書いた批判に対して、傷つく人がいる、傷ついた、といったことで、書くのを止めるように指摘される。批判はそれが暴力(誹謗中傷、人格攻撃)であるのか、それとも対決に向かうものであるのか、が重要で、批判すること自体を批難するのは見当違いがでないか。

    確かに、怒りを憎しみに矮小化するのではなく、憎しみを怒りに昇華させた方がよいように思います。そこに異論はありません。ただ、ここで問題になっているのは、傷つく人がいる、傷ついた、ということであって、憎しみの増幅ではない。憎しみが増幅しているという指摘ではなく、痛みが増幅しているという指摘ではないでしょうか。

    私は、だから批判自体をやめるべきだといいたいのではありません。そうではなく、論点が違うのではないかと言いたいのです。

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  2. 脇屋さん、コメントありがとうございます。
    ご指摘いただいたことへのぴったりの応答になるかわかりませんが、考えてみたところをご返信します。

    「傷ついた」あるいは「痛み」があるというとき、ひとしなみに考えるのではなく、どういう関係のなかで、その声が発せられているかを見ないといけないのではないか、と思いました。私がここで書いたのは、相対的に弱い立場=マイノリティの側が、強い立場=マジョリティの側の問題を指摘し、対決しようとするときに、強い側=マジョリティのほうが、それを暴力として指弾するということです。

    逆に言えば、自分が相対的に強い立場にある場合は、向けられる声に対して、謙虚にならないといけないと思います。

    引用した『暴力の哲学』では、マジョリティの転倒した被害者意識についても書かれていました。たとえば、ホームレスの人が怖いといって、公園や路上から排除されることが、ままあります。しかし、実際にホームレスの人が「一般人」を襲撃することはほとんどなく、逆に、野宿者が襲撃される事件は日常的に起きています(この点は生田武志『野宿者襲撃論』にくわしいです)。白人警官による黒人への暴力も、それと同じ構図があるというのですね。

    それゆえ、「暴力はいけない」という単純な考えでは、マジョリティの暴力、あるいは構造的暴力を強化するばかりで、むしろ暴走させてしまうことになるのではないか、ということを酒井隆史は書いていました。

    いずれにしても、自分を省みて、よく考えたいところだと思います。言葉足らずですが、ご返信まで。

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  3. 山下さん、こんにちは。

    いまさら返信をかいて恐縮ですが、なんとなくのどにつっかえたような感じが残っているので、書かせてください。気が向いたときにでもお読みください。

    傷ついた、傷つく人がいる、といった非難があるとき、それがどのような非対称な関係性のなかで発せられているのかは重要だと思いますが、私はどちらかというと、それがどんな場で発せられているのか、が気になりました。生活の文脈がある私的な場なのか、それとも、立場を演じる必要がある公的な場なのか、です。もちろん、両者は重なっていることが多く、実際私たちが社会生活上関係性を安定させるためにしている努力は、その場が公的な場であることをわきまえつつ、けれど公的な場だけでいっぱいにせず余白に私的な場をできるだけ残すようにする、ということだと思います。

    記事の冒頭部分で書かれていることは、はっきりとそう書いているわけではないですが生活の文脈がある中でのご経験のように思えました。対して記事の本編では、物事の白黒をつけ、立場を主張し守る、ということをする必要がある公的な場での事柄について書かれている。物事の白黒をつける必要である場面があるにしても、私的な場では相手と「問題」だけでつながっているわけではない。白黒つけなくても何とかなり、白黒つけようとするとむしろ余白がなくなって窮屈になり問題がこじれる場合がある。なので、記事の冒頭と本編とで接触が悪いように感じたんです。

    もっともいつだったかお会いしたときに、冒頭部分はいわば本編に後付けされたもので、冒頭部分から本編の内容が出てきたわけではないとのことだったので、私の前回のコメントの内容は、今回の記事で山下さんがおっしゃりたいこととはズレたことなので、関係ないといえば関係ない、というより単に関係ないのですが、一度言い始めてしまって頭の片隅に残るものがあったので、言ってしまうと、あれは、傷ついた、傷つく人がいる、といった非難が出ているもう少し具体的な状況を尋ねたつもりだったんです。

    少し歯切れが悪いですが前回のコメントの供養までにここに書き置いておきます。

    脇屋

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