いじめから「逃げる」ことはできるのか?

だいぶ以前、『教育と文化』という雑誌に、いじめをテーマに原稿を書いたことがあった。「逃げてもいい」という声が大きくなるなかで、ふと思い出して、了解を得て転載させていただくことにした。

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いじめから「逃げる」ことはできるのか?
『教育と文化』第73号(2013年10月25日/教育文化総合研究所編/アドバンテージサーバー)

●「いじめから逃げて」は届くのか

「自殺するくらいなら学校なんて行かなくていい」
「いじめられていたら逃げていいんだ」
「学校の外にも生きていく道はある」

私が関わってきたフリースクールや不登校の親の会などでは、ずいぶん前から、いじめに対して、こうした言葉がくり返し語られてきた。いじめがエスカレートするのは、そこから逃げられないからだ。いじめられていたら、何はともあれ、逃げたほうがいい。私自身も、そのように語ってきた。

大津のいじめ自殺事件の報道に際しては、評論家やコメンテーターなどからも、こうした発言が多く聞かれた。それは「うつの人にがんばれと言ってはいけない」というのと同じような、ある種、常識化した認識になってきているとも言えるだろう。しかし、にもかかわらず、いじめで自殺に追い込まれたり、自殺までいかなくとも、学校を休むこともできず、苦しんでいる子どもは跡を絶たない。「いじめから逃げて」という言葉は、いま、いじめで苦しんでいる当事者に届くのだろうか?

私自身のささやかな経験を思い起こしてみると、私は1986年にいじめを苦に自殺した鹿川裕史くんと同年代だ。当時、私自身、暴力に苦しんでいた。私の場合は、集団によるいじめではなく、いわゆるヤンキー連中に暴力をふるわれていたということだったが、それでも、そのことを先生や親に相談することはできなかった。肋骨にヒビでも入ったのか、ずっと胸が痛いのをガマンしたまま学校に通っていたし、突き飛ばされて頭でガラスを割ってしまったときでも、「悪ふざけをしてただけです」と自分から先生に釈明していた。なぜ、相談できなかったのだろう……。心配をかけたくない、屈辱を自分でも認めたくない、相談して形式的に解決しても意味がないなど、いろいろ思いはあったのだろうと思う。しかしそれ以前の問題として、不条理な経験に遭ったとき、人がそれを言葉にできるのは、ずっと後になってからではないか、と思う。

そうしたなか、鹿川くんの事件がマスコミで大きく取り上げられたとき、「なぜ騒ぐのだろう、自殺くらいするじゃないか」と思っていたように記憶している。そのとき、「逃げていい」という言葉を耳にしても、リアリティのない言葉にしか聞こえなかっただろうと思う。

また、学校の先生にとっては、自分の担任するクラスでいじめがあった場合、「学校から逃げていい」とは言えないだろう。「逃げていい」というのは、学校の外からしか言えない言葉だ。そして、外からの言葉は、どこかきれいごとにしか聞こえないようにも思う。

学校から逃げるというのは、実際問題、簡単ではない。みんなが学校に行っているなかで、自分だけがそこから外れるのは恐ろしいことだし、ギリギリまでがんばってしまう。理性的に判断して不登校になる人なんて、ほとんどいない。たいがいの場合は、ギリギリまでがんばって、身体が動かなくなって、ようやくストップする。いじめで自殺まで追いつめられてしまう人と不登校する人のあいだには、紙一重の差しかないといってもよいかもしれない。そして、それは子どもに限らない。精神疾患で休職する教員の割合は在職者の0.6%に及ぶ。小学生の不登校は0.3%であるから、先生の「不登校」は小学生の2倍になる。

不登校新聞社の編集長、石井志昂は「先生も逃げて」という。

苦しんでいる人に「オレも苦しいがガンバレ」ではなく、むろん「オレも苦しいのにお前は甘えている」などと言わず、「私も苦しいから助けてください」と手をあげる。そういう姿を子どもたちに見せることは、彼らが生きていくうえでとても大切なんじゃないでしょうか。本当に困難に追い詰められる場合は、その声をほとんどあげられません。ですので、先生方も「苦しいので逃げます」と言って逃げてください。(『先生!』池上彰編/岩波新書)


「先生も逃げて」というのも、学校の外にいるから言える言葉ではあるだろう。「逃げる」というと、責任放棄に思えるし、第一、生活もかかっているわけで、とんでもないと思われるかもしれない。でも、「休む」ことの重要さを、先生が身をもって子どもたちに伝えることはできるのではないだろうか。教員は学校の内部にいて、子どもたちとともにいる存在だからこそ、言葉ではなく自分自身のスタンスとして、しんどかったら休む、苦しかったら人に相談するという姿勢を子どもたちに見せることはできるのではないだろうか。それは、学校の外からの「逃げて」というメッセージよりも、はるかに、渦中にいる子どもたちに響くのではないだろうか。

ちなみに、「学校を休む」という表現は、英語だとabsent from schoolで、休む(rest)という意味はないそうだ。欠席は否定的なことではなく、休むという大事な意味を持っているということ。先生もそれを実践すること。それはいじめの渦中にある子どもにとって大事なだけではなく、いじめをエスカレートさせないことにもつながるように思う。

もちろん、現場は大変で、「そんな悠長なことを簡単に言うてくれるな」と思われるかもしれない。でも、いじめというのは、表面化したいじめだけの問題ではなく、いじめを生み出してしまう学校の構造そのものにある。構造を変えるのは簡単ではないが、休む価値を率先して先生が訴えていけば、子どもたちは、ずいぶん過ごしやすくなるのではないだろうか。

私はフリースクールに関わっているが、フリースクールでも、子どもたちどうしのもめ事は絶えない。スタッフが頭を抱えてしまうことも、たくさんある。ただ、学校とちがうのは、異年齢集団であったり、来る日数や時間がバラバラであったり、良くも悪くも流動的な場であることで、いじめとして固定化したりエスカレートすることは抑止されているように思う。学校よりフリースクールのほうが子どもにとってよい場所だと言うつもりはないが、休むことの価値が共有されていることは、学校に参考にしてもらってもよい面だろう(しかし、子どもに対しては休むことの価値を言えても、フリースクールのスタッフ自身は、がんばりすぎて休めてない人も多いかもしれない……)。


●いじめ、その後

私がフリースクールに関わるようになったのは、いまから20年ほど前のことだ。当初は東京で、12年前からは大阪でフリースクールに関わっている。フリースクールに来る子どもたちのなかには、いじめを経験した人も少なくない。また、不登校新聞社で編集長をしていたこともあり(2006年まで)、幾人もの、いじめ経験の話を聴いてきた。

本稿で、もうひとつ、考えたいのは、いじめから逃げたとして、その後、その経験はどのように消化されていくのか、ということだ。私が出会ってきたのは、いま、学校でいじめられている人ではなく、学校に行かなくなってから出会ってきた人たちだ。「いじめから逃げて」というと、学校から逃げてさえしまえば、いじめの問題は解消されるように思える。逃げることは何より必要にちがいないが、本人にとって、いじめられた経験は、そう簡単に癒えるものではない。

よく言われるように、いじめというのは、とても把握しにくい。とくにシカトなどコミュニケーション操作系のいじめでは、遊びとの境界もあいまいで、加害・被害の関係も一筋縄ではない。加害意識も希薄であれば、被害者も自分がいじめに遭っていることを否認することが多い。親や周囲も「それぐらいのことで」と言ったり、叱咤激励しがちだ。しかし、自分の存在が長期間にわたって辱められ否定され続けるという経験は、場合によって身体暴力よりも深く人を傷つける。そして、その相手が集団で加害者が特定できないことが、その経験を消化していくことを妨げ、何年経っても解消されない経験となっている。

私が7年ほど関わっているAさん(28歳・女性)は、中学のときにいじめに遭い、高校入学後にうつを発症し、20歳くらいまで無気力状態で「脳がぼけていた」「時間が止まっていた」という。21歳ごろになって「やっと意識が戻り」、いじめの経験を人に話せるようになった。しかし、語っても語っても、経験が消化されていかない。いまもくり返し同じ経験を生々しく語る。

それは、宛先がないことの苦しみなのだろう。加害者が加害行為を認識もしていない。自分の被害を、被害として受けとめ、謝罪してくれる人がいない。Aさんの場合、中学時代は学校から逃げることなく、必死に通い続けた。高校に入っていじめられる環境がなくなったことで、ようやく、そのしんどさを表面に出すことができた。それを言葉にして語ることができるようになったのが21歳、しかし周囲に話しても「忘れなさい」と言われるばかり。Aさんにかぎらず、いじめに遭った経験は、語ることのできないまま、あるいは語っても宛先のないまま、苦しみ続けている人は多いように思う。

私にできることは、ほんとうの宛先にはなれないにしても、何度でもくり返し話を受けとめ、それを言葉にして、経験に輪郭を浮かび上がらせる作業のお手伝いをすることぐらいだ。何度も同じことを語られると、周囲は「もう、いいかげん忘れたら」とか「昔のことだろう、いつまでもこだわるな」などと言いがちだ。でも、本人からしたら、くり返すほかないのだ。

Aさんは、「不思議なことに、心の病になってよかったと思う。人の痛み、同じように苦しんでいる人の気持ちがわかった。けっしてこの経験はムダにはならない。よかったなと思う」と話す。しかし、一方では、憎しみも苦しみもけっして消えていない。「加害者に同じ目に遭わせないと気が済まない!」と憎しみが表に出ることもある。それは、両方ともほんとうの気持ちなのだと思う。

いじめには、その後がある。学校時代では終わらない。いじめを早期発見・早期解決というけれども、そう簡単なことではないと私は思う。いじめられている経験というのは、私自身のささやかな経験に照らしても、渦中にあるときは、なかなか語ることができない。だからこそ、それが語られたときには、粘り強く、真摯に耳を傾ける必要があるのだと思う。自分の経験を語っていいことなんだと思える、人に話すことができる。それでも簡単に消化されることはないだろうけれども、もし、いじめが「解決」することがあるすれば、それはそういうプロセスの先にあることなのだろう。


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