書評:『教育は社会をどう変えたのか』

桜井智恵子『教育は社会をどう変えたのか』(明石書店2021)を読んだ。紹介をかねて、書評というか、勝手な感想を書いておきたい。

いまの社会では、「不登校」にしても、「子どもの貧困」にしても、それを生み出している構造の問題を問わずに、排除された側を個別に「支援」するということが当然になっている。しかし、それでは構造的暴力はますます強化され、問題は深刻さを増していく。しかも、「支援」された側は、自分ががんばれば克服できると思い込まされ、克服できなければ自分の能力や努力の不足のせいだということになってしまう。また、「当事者」ではない人たちも、同じ構造のなかにいて苦しんでいるのに、それはあの人たちの問題だと「他者化」してしまっている。つまり、問題が「個人化」されている。

教育にしても、福祉にしても、根本的におかしなことになっている。教員も福祉関係者も、評価のまなざしにさらされ、競わされ、常に自己コントロールが求められ、成果主義に追い立てられている。フリースクールなどにおいては、教育機会確保法において顕在化したように、むしろ進んでそうした仕組みを求めていったところがあった。いったいなぜ、そんなことになるのか。これは、どういう社会的背景から生じているのか。

それを問うには、現象化している個別の問題だけを見るのではなく、かといって、ヘリコプターで上空からながめるように俯瞰するのでもなく、現場で具体的に起きていることを踏まえつつ、それを生じさせている構造をひもといていくことが必要だろう。本書の著者は深く広い視座から、硬軟おりまぜつつ、ぶれない軸をもって、絶望的な状況に目をこらしつつも、希望に向けて書いている。

たとえば、著者は次のように言う。

時代のデフォルトは「個人で生き延びろ」(個人化)である。子どもの貧困問題についても、解決の方法として学習支援が注目されたため、子どもの将来に大きく関わっている雇用や深刻な不平等の改善という争点は周縁化され、脱政治化されてきた。現代の市民社会において、人々の生存の軋轢は未解決のままとり残されている。

困窮している子どもや市民は「支援」を必要とするというのが暗黙の前提とされている。生きづらさを「支援」によって和らげるとか、孤立しがちな人々の絆を「支援」で支えるといった介入手段として、「支援」というキーワードは資本の再編成に利用されている。

著者はフーコーを参照しながら、それが「統治」になっていることを明らかにし、すみずみまで張りめぐらされた「統治」をズラしつつ、「脱個人化」する道筋を提唱している。そして、そこで必要になるのは、個人が競わされるような「業績承認」ではなく、「存在承認」だという。ただし、存在承認は「あなたの存在を認めるよ」という話ではなく、「共同的なものを基底に、自分を自分で承認できる所得配分を前提にした状況」のことだという。このあたりは、やや言葉が難しくも感じるが、私なりの理解で言えば、自分が自分でいいと思えるには、たんに気持ちや心がけの問題ではなくて、食べていける、身体も安定して存在できる基盤が必要で、そのための配分は、個人ががんばって獲得するのではなくて、当然のものとして配分させないといけない、そういう社会の仕組みにしないといけない、ということだろう。私たちは、そういう社会に向けて、協働していく必要がある。

ただ、「脱個人」とか「共同性」というと、「古きよき」共同体を想定して、保守に傾く場合もあると思うが、それは幻想でしかなくて、ここまでバラバラになってしまったことを前提としながら、新たに共同性をつくっていく必要があるのだろう。実際には、そうした営みさえ資本主義に呑みこまれている現実もあるが、資本のふりまく幻想にもだまされず、現実を直視しながら、前に進んでいきたい。本書は、そこに向かっていくための「序論」なのかもしれない。



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