書評:『「ひきこもり」から考える』

支援者でも、教員でも、研究者でも、この人は尊敬できるなと思える人というのは、その対象とする人とのかかわりのなかで、ままならないことに揉まれて磨かれている人のような気がする。ゴツゴツとした石が川で転がりながら磨かれて、丸みを帯びているような感じというか。そういうおまえ自身はどうなのかと問われれば、かかわる人を自分の狭い了見で決めつけるようなことはしたくないと心がけてはいるが、それができているかどうかは、たいへん心もとない……。

本書の著者、石川良子さんは、「ひきこもり」の研究者でありながら、当事者に共感するところと、わからないところと、そこにあるもやもやとを、ごまかさずに考えてきた人なのだと思う。本書は、石川さん自身が研究者として当事者とかかわるなかで、揉まれつつ、磨かれていくプロセスを明らかにし、そこから見えてきたことを、支援に活かすエッセンスとして抽出した本ではないか、と思う。それはまた、この20年ほどのあいだに交わされてきた、「ひきこもり」をめぐるさまざまな論議や葛藤のなかで磨かれてきたものでもあるだろう。

著者は、「ひきこもり」のコアにあるのは〈動けなさ〉であり、生きることへの実存的な問いであるという。そのとき、周囲に問われるのは、その聴く耳のあり方だ。それはまた、聴く側の価値観が根本から問われているということでもあるだろう。

「ひきこもり」の当事者は、周囲から否定的にまなざされるなかで、実存的な問いを深めざるを得ないところがある。それに対して、周囲がはなから持っている自分の価値観をそのままにしていては、本人の話を聴くことができない。聴いているようで、自分の聴きたいようにしか話を聴いていないし、見たいようにしか相手を見ていない。周囲の人たちに自分たちの持っている価値観を問い直すスタンスがあって、初めてそこで対話が可能になるのだろう。それは上っ面の技法などではない。

また、ここで抽出されたエッセンスは、「ひきこもり」にかぎらず、さまざまな文脈に活かせるものでもあるだろう。支援にかかわる人にとっては耳の痛い本だろうが、だからこそ、多くの支援者(「ひきこもり」支援にかぎらず)に読んでほしいと思う。

もう少し言えば。

本書を読んでいても思うのだが、「ひきこもり」をめぐる論議や葛藤には、デジャブ(既視感)がある。先行して、不登校をめぐる論議や葛藤があるからだ。不登校には60年ほどの「歴史」がある。そのあたりをつなげて考えていくことができると、また見えてくるものがあり、それは今後を考えていくうえで大事なことのような気がしている。

また、本書では語り得なかったこと、語りきれなかったことも多くあることと思うが、そこを大事にしながら、考え続けていくことが大事なのだと思う。「歴史」は、語られたものばかりではないし、くり返しながらも、次へとつながっているのだから。 


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