追悼 山田潤さん

7月16日、山田潤さん(元定時制高校教員/学校に行かない子と親の会(大阪)世話人)が逝去された。享年74歳。ガンとの闘病のほか、2年前に脳出血を起こし、そのリハビリに取り組んでおられた。勝手ながら、追悼文をしたためたい。

 * * *

いつもはにかんだような笑顔を浮かべ、裸足に小汚い草履を履いて、飾ることのない人。山田潤さんを思い出すと、そんな姿が思い浮かぶ。

私が山田さんに最初に会ったのは、たぶん1996年か1997年のことで、ちゃんと話をしたのは、97年のことだったと思う。不登校新聞を創刊することになって、東京に編集局を、名古屋と大阪に支局を置くことになり、山田さんは大阪支局の理事となってくれた。創刊の準備で大阪の親の会の事務所を訪ね、いろいろお話をうかがった。年齢で言えば、当時の山田さんは49歳で、いまの私と同じ年齢だったことになる。今宮工業高校の定時制で教員をされていた。自分の子どもが不登校というわけではなく、教育と労働のあり方への問題意識から、親の会の世話人をされていて、ほかの親の会の方とは、ちょっと毛色がちがうなという印象があった。

ただ、当時の私は、山田さんの訳書である『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィルス著/ちくま学芸文庫)のことも知らなかったし、山田さんの問題意識をちゃんとわかっていたわけではなかった。東京シューレでスタッフをしていた私は、フリースクールの運動に強い求心力を感じていたし、そこに希望を見いだしてもいた。そういうなかで、山田さんの言うことは、もうひとつ物足りないというか、腰の定まらない感じがしたというのが、正直なところだった。不登校新聞の創刊時の理事のひとり、奥地圭子さんが教員を辞して、学校外に東京シューレというフリースクールを創設していったのと比べて、山田さんは、教員をしながら学校制度を批判的に捉えてはいるものの、自身の過去の労働経験や、かつての定時制高校の生徒たちへのノスタルジーから語っているようで、まだるっこいというか、そんなふうに受けとめていた面もあったように思う。

不登校新聞は、1998年に創刊し、2000年に編集部を大阪に移し、私も東京から大阪に移ってきた。東京を離れてみて、自分の認識の枠組みが、あるひとつの文脈にすぎなかったことに気づく。フリースクールの文脈と不登校の文脈は同じではない。重なるところはあるが、不登校には、フリースクールの文脈だけでは捉えきれない現実があり、考えないといけないことがたくさんある。そんなあたりまえのことに気づいたのは、大阪に来てからのことだったように思う。大阪に来てからも、私たちはフォロというフリースクールを立ち上げたが、ままならない現実に直面し、葛藤することも多々あった。

山田さんには、フォロに直接かかわってもらったり、相談に乗ってもらうということはなかったが、自分の頭だけでは考えきれない問題については、何かと言えば山田さんと話してきたように思う。そういうとき、私が浮わついたことを言うと、すかさず、そこを指摘された。雰囲気で相手に合わせるようなことはなく、はにかむような笑みを浮かべながら、黙ってうなずいて話を聞きつつも、言うべきことは歯に衣着せず、きちんと言ってくれた。そこには、物事をていねいに考え抜く知性があったように思う。そして、そうした指摘を受けると、いつもひやりとした気持ちになりながら、ときに反発しながらも、大事なことを考える機会をいただいてきたように思う。

話しているときだけではなく、書いているものが浮ついていると、そこを指摘されることも、ままあった。内容だけではなく、文体が乱暴なところに対しては厳しかった。山田さんは、文章についても、こだわりぬく人だった。ちなみに、不登校新聞の漢字仮名づかいは、創刊時に山田さんがつくった基準がもとになっている。その職人的なこだわりは、山田さんの職人気質の一面でもあったのだろう。

山田さんは、ご自身の板金工としての経験や、工業高校の定時制で教員をしていた経験から、手仕事を重視していた。山田さんの教育や学校への批判は、手仕事と離れた学びのあり方や、学歴だけが重視される学校や社会のあり方に向けられていたし、それは、そこで「できない」とされた子どもたちの葛藤と向き合うなかで、培われてきたものだろう。

そうしたことから、山田さんは常に、具体性を離れた大づかみな批判ではなく、具体的にあらわれた事象のなかに普遍的な問題を見出し、それをていねいに考え、言葉にしておられたように思う。そして、文体には、その人の思想性があらわれる。だから、文体にも徹底してこだわる。鍛造された強度みたいなものが、山田さんの言葉にはあった。

ただ、やはり世代の差はあって、山田さんの批判は、過去の経験から現在を問うというところがあったように思う。山田さんにかぎらず、上の世代の方たちとの対話では、しばしば、そうしたズレを感じることはあって、すでに失われているものを持ち出されても、それを足場にはできないと反論することも、ままあった。しかし、上の世代の方々が高齢化し、対話する機会も減っている。山田さんの訃報を受けて、大事な対話の相手をひとり失ってしまったことに、うろたえている自分がいる。

上の世代の人たちに反発したり、葛藤をぶつけたり、そうした反発や葛藤を含めて受けとめてもらったり、そこで対話ができるということが、なんとありがたいことかと、いまさらながら痛感する。ひるがえって、自分が下の世代にとって、対話できる相手になり得ているかと問われれば、はなはだ心許ないが、対話していただいた恩は、下の世代に返していけたらと思う。もちろん、相手が対話したいと思ってくれたなら、ではあるけれども。

私にとって、山田さんは、自分を戒めてくれる存在だった。山田さん、この世にはもういなくなってしまったけれども、私が浮ついたことを言ったり書いたりしていたら、どうぞ戒めてください。合掌。


2016年、佐々木賢さんにインタビューした際の写真。
(左から山田潤さん、佐々木賢さん、筆者)






コメント