不登校と「がんばる」問題

不登校が問題になったのは、高度経済成長期とともに、というところがある。それ以前は、農業や漁業や自営業などで働いている人が多く、中卒で働く人も多かった。学校の価値は低く、長期欠席する子どもも多くいたものの、いまのように問題視されることはなかった。あるいは、子どもが労働力だった時代にあっては、子どもにとって学校というのは、生活や労働から解放される場だったと言える。

ところが高度経済成長期に入ると、第一次産業が衰退し、あるいは自営業ではやっていけなくなり、雇われて働かないと生きていけないような社会状況になっていく。それとともに、高校や大学への進学が重視されるようになり、学校の価値が高まり、学歴で人が振り分けられるようになる。学校は将来のために行かなければならない場所となり(それは学校が「労働からの解放の場」から「教育労働の場」に変わったとも言えるだろう)、少しでも休めば、たちまち問題視されるようになった。「学校信仰」のような規範は、そうした社会変動のなかで生み出されたものだったと言える。

人が古い共同体から引き抜かれて、市場で流通する労働力商品となって、その商品の値段は学歴によって決まるので、高学歴化が進む。しかし、引き抜かれてしまった不安は常にあって、だからこそ学校の価値を信じないとやっていけず、その価値を揺るがすような存在は許せなくなる。不登校は怠けだとか甘えだという偏見や抑圧がもっとも強かったのは1980年代ごろだと思うが、それは「学校信仰」を多くの人が持ちながらも、その底には大きな不安を抱えていたからだったのだろう。

90年代以降になると、バブルは崩壊し、雇用が流動化し、学校を出たところで安定した雇用は保障されなくなる。とりわけ高卒求人が激減し、大学進学率が上がったものの、それに応じて安定した雇用の枠が拡大したわけではなく、むしろ縮小し、いったん正規雇用に就いたからといって、安定した雇用が保障され続けるとはかぎらなくなった。

そうしたなか、不登校をめぐる言説も大きく変容していった。80年代ごろには不登校は個人病理のように言われていたが、それに対する対抗言説として個性として語られるようになり、しだいに多様性のひとつとして認められるようになっていった。それは運動の成果というよりも、上記に粗描したような社会構造の変化ゆえだと思うが、当事者の側には、自分たちのことが社会に承認されたという錯覚を起こしている面もある。錯覚だというのは、不登校は多様性のひとつとして、個性や個人の生き方として承認されるようにはなってきているけれども、その結果生じる不利益については自己責任となっていて、不利益を生じさせる社会構造は変わっていないどころか、むしろ過酷になっているからだ。逆説的だが、登校圧力の強かった時代には、個人だけの責任にするのではなく、学校の責任として社会に送りだそうという規範があったとも言える。

あるいは、がんばる人が認められる道は多様になったかもしれないが、がんばれない人への圧力はかつてないほど高まっている。しかも、いまはがんばって認められている人も、ずっとがんばり続けないとならず、がんばれなくなったとたん、ポイ捨てされてしまうのではないかという不安にさいなまれている。そうした存在論的不安を抱えているなかでは、がんばれない人、がんばらない人が「悪魔化」されて、バッシングされる(たとえば生活保護バッシングのように)。

そのため、不登校をめぐる言説も、「学校に行かなくてもがんばっている」と語るか、「がんばれないだけの理由がある(いじめ、体罰、毒親など)」と語るかが迫られ、二極化してしまう。不登校をアイデンティティの問題にしてしまうのは、たいへんあやういと言わざるを得ない。あるいは、ほぼ同じことが「ひきこもり」についても言えるだろう。

いまや、「学校信仰」ではなく、「がんばる信仰(がんばれば報われる信仰)」を問う必要があるのではないだろうか。いくらがんばったところで、報われない人は多数いる。イス取りゲームのイスはかぎられているし、むしろ座れるイスは減っている。なおかつ一度座ったらゴールではなく、がんばり続けないと振り落とされてしまう。そういう状況のなかで、がんばることで自分を認めてもらおうとするのではなく、がんばれない理由を説明したり、がんばれない自分を責め立てたりするのでもなく、この状況そのものを問い直し、変えていく道筋をさぐりたい。それには、まずは自分たちのかかっているマインドコントロールを解くところからしか始まらないのだろう。


コメント

  1. 山下さん、こんにちは。
    不登校関連ではないのですが、「がんばる」についてコメントさせてください。

    「がんばる」問題で難しいなと思うのは、「がんばる信仰」をもつことで結局がんばれなくさせられてしまうことだと思います。それは「がんばる」の内容が、周りの人々の期待で敷き詰められたレールの上を走ることに耐えることになってしまうからです。それは、「問題」に立ち向かうこと、とは違いますしむしろ離れたことですが、かといって無関係でもありません。がんばってがんばって、いつの間にかそれが自分から苦痛に飛び込んでその苦境に耐えることになって、元気がすり減らされていく。がんばらなくていい、となっても、「問題」に創意工夫で立ち向かう力はわいてこない、むしろ遠のく。二重にがんばることが困難な状況であると思います。

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    1. 脇屋さん

      ありがとうございます。コメント、いつも考えるヒントをいろいろもらっています。
      何のためにがんばるのか、その軸になる部分が空虚で、がんばること自体が正しいみたいになっていると、疲弊してしまいますよね。そして、疲弊するほどに「信仰」を手放せなくなって、ますます疲弊してしまうという悪循環があるのかもしれない、と思いました。

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