「責任」をめぐるズレについて

裁判の取材などをしていて、被害者が民事裁判を起こす場合、損害賠償というかたちしかないのはなぜなのだろうと思うことがよくあった。もちろん、刑事裁判についても、被害者は被害届を出したり告訴することはできるが、刑事裁判の場合、告訴というのは犯罪事実を申告し、犯罪者の処罰を求める意思表示のことに過ぎず、自分で裁判を起こせるわけではない(起訴できるのは検察のみ)。また、刑事責任というのは、法律を犯したことで、国家から刑罰を受ける責任であって、被害者に対する責任ではない。被害者が加害者に対して責任を果たさせたいというとき、その方法は裁判では損害賠償というかたちしかない。しかし、それは金銭で被害の程度を測り、その責任を確定させるということになる。そのため、ややもすれば、金目当てだと非難されることもあるし、そうでなくても、そこには何か大きなズレがあるように思う。このズレは何なのか、長年、疑問だった。

このあたりの疑問について、デヴィッド・グレーバー『負債論』を読んでいて、腑に落ちるところがあった。

たとえば、ある民族において、殺人の被害があったとき、加害者の一族から被害者の家族に対して、貨幣としての「鯨の歯」や「真鍮棒」が贈られる。しかし、それはひとつの生命を負っているということを認める印であって、賠償にはなり得ないのだという。いくばくかの貨幣が、誰かの価値の等価物たりうると考えることはできない。かといって、復讐殺人も被害者の悲しみと苦痛の償いにはならない。貨幣は、あくまで「負債」を支払うことは不可能であることの承認として支払われるのだという。つまり、その「負債」は背負い続けていくしかないもので、それを認める印として貨幣を支払うということなのだろう。

しかし、現在の社会においては、被害は金額に換算され、それを被害の等価物として、損害賠償をしたら、それで責任を果たした、決着したということになっているのではないだろうか。多くの場合、加害者側は、賠償をしたのだから、その責任を果たした、それで区切りをつけたいと思いたいのではないだろうか。一方、被害者の側は、あくまで賠償は責任を認めたことの印であって、その責任は将来にわたって背負い続けていくことを求めているのではないか。私が感じてきたズレは、このあたりにあるように思う。

『負債論』は、人間社会における、計算など不可能な信用関係が、いかにして計算可能な利益の関係に転換されたのか、それがいかに暴力と結びついてきたかを、人類の歴史をひもときながら解明している本だと思うが(要約するには長大すぎて乱暴なまとめになってしまうが)、社会の基盤にあるのは、金銭に置き換えることなど不可能な信用・信頼の関係なのだろう。

責任ということを考えるときも、私たちは、その地平に立って考えることが必要なのではないかと思う。 



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