書評:勝山実『自立からの卒業』

素数ゼミではないけれども、ひきこもり名人・勝山実氏が13年ぶりに「本気を出した」。4冊目の著書『自立からの卒業』(現代書館)を刊行。文字通り、「自立」という呪縛、支配からの卒業をうたっている。

従来から、勝山名人は「ひきこもり支援」が支援者支援になっていることを痛烈に批判し、当事者への直接給付を訴えてきた。ところが、その主張が見向きされることはなく、もっと耳ざわりのいいことを言う「御用当事者」の声ばかりに聞く耳が持たれ、ひきこもり支援=自立支援はますます強化され、「ひきこもり基本法」なる法案まで検討されている時勢となっている。

それでも、名人は世論におもねって、耳ざわりのいいことを言おうとはしない。バカみたいに直球で、ど真ん中に球を放り投げ続ける。そう、この本は愛すべきバカの、バカによる、バカのための本なのだ。

名人は言う。

バカでなければ、ひきこもりはつとまりません。ここでいうバカとは、野球バカとか、釣りバカとかの、後先のことなぞ考えずに熱中して打ち込む、あの愛すべきバカのことです。小学生でもないのに、1日中ゲームをしたり、ユーチューブやツイッター(現X)を見て1日が終わってしまうなんていうことは、バカでなければできるものではありません。ひきこもりバカは筋金入りで、将来どうするんだなんていう脅しは一切通用しません。嬉々としてパソコンでブログを書いたり、図書館で読書をしたり、平日の市民プールを満喫したりと、人生に対する緊迫感はゼロ、常にノーダメージです。

こんなことを言えば、ただちに、「そんなことで現実問題どうするんだ」「親亡きあとはどうするんだ」「甘えているんじゃない」といった罵声が絨毯爆撃のように降ってくることだろう。きっと、名人は四方八方から銃撃され続けてきたにちがいない。名人は、それでもバカ一筋に語っている。しかも、たんに吠えているのではなく、揺らぎも葛藤も隠さず、現実を生きながら、さめた目で自分をとらえつつ、筋を貫いている。

名人は、こうも言う。

働く奴隷は社会を支える。
働かない奴隷は社会を変える。

ここで思い出すのは、魯迅の「賢人とバカとドレイ」という寓話だ。

ドレイは、みずからの不遇をなげき、部屋に窓さえないことを嘆いている。賢人は「そのうち運が向くよ」とさとすが、ドレイの嘆きを聞いたバカは、さっそくドレイの部屋の壁に穴を開けようとする。ドレイは、あわててそれを止めて、主人に報告する。そして、賢人や主人からほめてもらう。

魯迅を日本に紹介した竹内好は、この寓話について、ドレイは自分の置かれている現実をほんとうには見たくなく、呼び覚まされたくないのだ、と解説する。そして、次のように言う。

ドレイは、自分がドレイであるという意識を拒むものだ。かれは自分がドレイでないと思うときに真のドレイである。ドレイは、かれみずからがドレイの主人になったときに十全のドレイ性を発揮する。なぜなら、そのときかれは主観的にはドレイでないから。(略)ドレイがドレイの主人になることは、ドレイの解放ではない。しかしドレイの主観においては、それが解放である。(竹内好『日本とアジア』ちくま学芸文庫)

勝山名人が、耳ざわりのいいことを言う当事者を「御用当事者」と批判するのも、まさに、そこにドレイ根性をみるからだろう。

問題は、ひきこもりにとどまらない。「自立」に呪縛され、支配され、ドレイ化されているのは、この社会を生きる大多数の人びとだ。その壁に穴をうがつのは、「バカ」にほかならない。13年ぶりに「本気を出した」名人に乾杯したい。 



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