「災害」から問われていること

私は大きな災害に遭ったことはない。1995年の阪神淡路大震災のときは関東に住んでいて、2011年の東日本大震災のときは関西に住んでいた。しかし、災害は被災した当事者のみの問題ではない。災害は天災として生じたものであっても、行政の対応や社会のあり方によって、人災を引き起こす。もっと言えば、災害は、私たちのふだんの社会のあり方を問うものでもある。そういう意味で言えば、そこに「部外者」はいない。私自身は直接の被災経験をもたず、「当事者」ではないものの、「災害」から問われることについて、観念的ではあるけれども、少しつづってみたい。 ●「災害」がひらくもの クライシス(危機)という言葉はギリシャ語を語源とし、「何かが最高点に達し分裂する点、すなわち、どう変わるにしろ、変化が差し迫った瞬間を意味する」そうだ。サミュエル・ヘンリー・プリンスは、災害は、単に当時すでに差し迫っていた問題をはっきりさせたにすぎず、災害は社会に変化の機会を与え、進行中の変化を加速させ、もしくは、何であれ、変化を妨げていたものを壊すという。(*1) 日本語の「危機」という言葉をみても、「機」という字には「物事のおこるきっかけ」という意味もあれば、「大事なところ」「かなめ」という意味もある(*2)。 また、古典ギリシャ語では、「受難する、災難を体験する」という意味の動詞(παθεῖν)と「学んで悟る」という意味の動詞(μαθεῖν)は、とてもよく似ているそうだ(*3)。 災害によりシステムがクラッシュしてしまうことは、被害を生み出す一方で、システムを見直し、再構築する機会にもなる。レベッカ・ソルニットは『災害ユートピア』において、さまざまな過去の災害、それを分析した論文や当事者の語りなどを参照しながら、災害がもたらす被害のみを見るのではなく、そこにある可能性を探っている。いくつか、引用したい。 災害時には、政府の対応はいずれにせよ不十分なものとなりがちだ。混乱のあまり、見当はずれの対応をしたり、まったく対応できなくなったりする場合も少なくない。(略)官僚機構や役所仕事の融通のきかなさのせいで、緊急の対応は不可能になるので、市民は自分たちでどうにかするしかなくなるのだ。こうして政府が不在になると、人々は自分たち自身を治めることになる。ホッブズからハリウッド映画の制作者まで、誰もがそれは、弱肉強食のカオスを意味...