万博の下にあるものは

 4日後の4月13日から「大阪・関西万博」が開幕する。さまざまな問題が明らかになりながら、それを無視し、あるいは場当たり的に対処しつつ、まるでなかったかのように埋め立てつつ、その上に開かれる虚飾の巨大イベント。「夢洲」とはよく言ったものだと思いつつ、そういえば、この埋め立て地を見学させてもらったことがあったのを思いだし、パソコンのハードディスクを探したら、そのころ書いた文章と写真が出てきた。当時(2007年)のまま掲載するが、読み返してみると、皮肉にも、万博は、まさに私たちの社会の象徴なのかもしれないと思った。

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○ゴミの埋め立て地

大阪市のゴミ埋立地(北港処分地)を見学させていただいた。夢洲(ゆめしま)と名づけられた島のうち、73万㎡(甲子園18個分)が、ゴミの埋立に使われている。

橋を渡って検問を通過すると、そこには別世界が広がっていた。何と言ったらいいのだろう。広大な土のひろがりがある。かといって自然というわけでもない。何から何まで(地面まで!)人造されているものなのに、標識やアスファルトや、都市的な要素のまったくない広大な土のひろがり。それは、何とも形容しがたい、ひろがりだった。

メタンガスを排出するエントツがあちこちにあった。

島の先端に管理事務所があり、まずは、そこでレクチャーを受けた。

大阪市のゴミの量は年間164万トン。そのうち33万トンが焼却残滓として残る。考えてみれば当たり前のことだが、ゴミは燃やしたからといってなくなるわけではない。総量の20%は残るのだ。北港処分地には、この焼却残滓のうち23万トンと、下水の焼却灰1万7000トンが埋め立てられている。うかつにも私は知らなかったが、下水も、焼却処理した後には汚泥が残るのだ。それが、ここに埋め立てられている。

北港処分地での埋め立てが始まったのは1985年から。現在、86%まで埋め立てられているが、今のペースなら、まだ20年近くはもつという。ゴミの量は、バブルのころを境に、少しずつ減ってはきている。2000年までは、燃やせないゴミを、そのまま埋め立てていて、それは2mの厚みで浮かんでいたという。そのため作業は困難で、作業車両が沈み込むこともあったそうだ。

埋め立てには、とても手の込んだ作業が必要だ。まず、海底の地盤改良のために、海底に3.5m間隔で杭を打ち込む。そうやって水を吸い上げないと、埋め立て地が地滑りを起こしてしまうそうだ。そして、ゴミを3m埋め立てるごとに、50cmの山土で覆土し、サンドイッチのように埋め立てていく。そうしないと、ハエが大量発生したり、メタンガスで火災が発生してしまう。かつては事務所のなかにいても、ハエのなかでご飯を食べるような状況だったそうだ。山土は、小豆島や家島から購入し、年間3~4万トンを使用する。そのために島の姿は変わってしまったという。ゴミを処分するにも、膨大な作業と、お金と、資源(山土)が必要なのだ。

レクチャーをしてくださった職員の方は「ほんとうは生ゴミを山に埋めたほうがいいんです。自然に還るわけですから。しかし、量が多すぎて、そういうわけにはいかなくなったわけですね」と語っていた。

空き缶なども燃やされて埋め立てられている

1時間ほどのレクチャーのあと、管理事務所の車で処分地内を見学させていただいた。

広大な土の広がりのなかに、ポツポツとパイプが立っている。メタンガスを抜くためのパイプだ。パイプ口に手をかざすと、たしかに温かなメタンガスが出ていた。

覆土する前のところにいくと、焼却残滓のようすがよくわかった。燃え切らずに残ったキャベツの芯があったり、空き缶やビンなどもたくさんある。処分地にはカラスがたくさんいたが、それは焼け残った食べ物があるからだそうだ。職員の方いわく「焼け具合がちょうどいいのでは(笑)」。

下水を焼却したあとの汚泥は、赤茶けた土となっていて、近づくと臭いもしたが、さほど強い臭いではなかった。おもしろかったのは、汚泥を埋め立てたところで、野菜を栽培していたこと。なるほど肥料は抜群だろう。

埋め立て地からは、市内のきらびやかなビル群が目に入る。海を隔てて別世界が広がっている。そして、その市内の街々から、毎日、膨大量のゴミが処分され、水路と陸路で、ここに運び込まれている。すでに、この島は、二つ目の埋め立て地。しかも、大阪市のゴミだけ(!)での話である。現在、新島も造成されている。たかだか数十年で、目もくらむほどのゴミが島をつくった。これは一体何なのか――。モンスターのように資源を喰らい、膨大量を排泄する私たちの生活。根本的に、私たちの生活のあり方はまちがっているのだろう。

処分地は、風が強く、とても寒かった。「これでも、おだやかなほうです。ここは暑いか寒いかで、いい季節はほとんどありません」と職員の方は話していた。
いろいろ感じること、考えることはたくさんあったが、何より、作業している方々に頭の下がる思いがした。

追記:この処分地は、大阪オリンピックの候補地だったそうだ。もし決定していたら、ゴミの上に廃墟をつくっていたことだろう。

(2007年1月22日「コムニタス・フォロ」のブログに掲載)


〇ゴミの話のつづき

ゴミの埋立地を見学させていただいてから、ゴミとは何だろうかと改めて考えていた。ゴミと一口に言っても、食べ物の残りや、紙くず、空き缶、粗大ゴミなど、実にさまざまだ。埋立地には、下水を処理したあとの汚泥も含まれていた。そういえば、少し前に見学させていただいた犬管理事務所で処分された犬猫も、焼却処理されると聞いた。とすると、彼らのお骨も埋め立てられているにちがいない。ありとあらゆるものが、ゴミとなっている。


しかし、ちょっと考えてみると、ゴミがゴミたるゆえんは、循環しないことだと言える。食べ物の残りや、排泄物、動物の死体などは、本来、自然に還るものだ。埋立地の職員の方も、「ほんとうは生ゴミを山に埋めたほうがいいんです。自然に還るわけですから。しかし、量が多すぎて、そういうわけにはいかなくなったわけです」と語っていた。自然に還れば、それはゴミではなく、次のいのちの営みへ活きる源となる。それをむざむざ焼いて埋め立てているのだ。カンやビン、紙くずなどはリサイクル可能のものだし、循環していればゴミにはならない。

さらに考えると、このゴミのもとの多くは、海外から来ていることに気づく。日本の食料自給率は40%(カロリーベース)。60%は海外から来ている。紙や鉄鋼資源は言うまでもない。日本では、莫大な資源を海外から持ち込んで、循環させることなく廃棄している。莫大量ゆえに循環できないとも言えるだろう。あたりまえのことだが、これはヘンだ。循環できずに蓄積されていくゴミは、浮かばれない亡霊のようではないか。莫大なエネルギーを使って高速度で回転する都市社会は、途方もない闇を抱えているのかもしれない。

(2007年1月29日「コムニタス・フォロ」のブログに掲載)

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