書評:神長恒一・ペペ長谷川『だめ連の働かないでレボリューション!』
また、だめ連の本が出た。2000年刊行の『だめ連の働かないで生きるには!?』を大幅改訂した文庫版『だめ連の働かないでレボリューション!』。
まず、だめ連とは何なのか。
「モテない、職がない、うだつが上がらない……。自薦他薦問わず、“だめ”な人たちが集まり、孤立して“だめ”をこじらせないように、傷をなめあうための交流の場」(『だめ連宣言』作品社1999)。1992年、早稲田大学を卒業後、大手百貨店に就職したものの10カ月で「引退」した神長恒一さんと、神長さんと同級生であるものの留年を重ねていたペペ長谷川さんが結成。生産性というモノサシで人がはかられる資本主義社会を問題とし、社会の変革とオルタナティブな生き方を提唱。以降、おもに路上を舞台に交流・トーク・イベント・諸活動路線で活動。「どんな人生、社会がいいのか?」を人びとと語りあい、つながりながら、労働と消費中心でない生き方を実践してきた。
私がだめ連と出会ったのは、1992年のことだったので、いま思えば、結成したばかりのころだった。何かのデモに行って、あまりにコクのある風貌のペペ長谷川さんに、ビラをもらったのが最初だ。とはいえ、その後、そんなに交流があったわけではない。学生のころは、デモに行くと会うぐらいで、その後、2000年前後から有名になったころには、私は関東から関西に移っており、だめ連のイベントなどに行くこともなかった。だんだん、名前を聞く機会も少なくなって、2023年にペペ長谷川さんが胆管ガンで亡くなり、お墓参りをしつつ、ひとつの時代が終わったのかなと思っていたりした。
ところが、だめ連は終わっていなかった。2024年に現代書館から『だめ連の資本主義より楽しく生きる』が出て、ワクワクしながら読んだ。私自身は、不登校やひきこもりの当事者運動にかかわりながら、この30年ほどを過ごしてきた。直接、だめ連と交流をしてきたわけではないものの、根っこにある問題意識はつながっているように感じ、それぞれの30年を振りかえりながら交流できればと思い、神長さんと、おつれあいのイカさんを「づら研」(生きづらさからの当事者研究会)にお招きし、交流会を開いた。詳細は書けないが、いろいろな難しさ、矛盾、葛藤などもふくめて、語り合うことができたように思う(なお、本書巻末の活動紹介にも記載いただいた)。
本書「文庫版まえがき」で、神長さんは次のように言う。
われわれは資本主義のロボットなんかじゃない。だめ人間でけっこう。心を捨てずに生きていきたい。そのためにはこのわれわれをほとんど飲みこんでしまっているシステムを疑い、そこからまず気持ちだけでも抜けだすこと。生き返ること。そして、人々と交流しつながり、共にこの社会をその内側から少しずつ変えていくこと。闘っていくこと。経済活動中心の世の中とは違ったオルタナティブな生き方をつくっていくこと。そう、「もう一つの社会」はぜんぜんいっくらでも可能なのだ。
本書には、だめ連につながる(そもそも、だめ連は所属するような会ではない)、さまざまな人がコラムを寄せている。お金を稼ぐことと消費することばかりに意識を狭められがちな社会にあって、アナーキーで、手づくりで、ゆたかな発想、暮らし方、楽しみ方がさまざまに語られている。そして、お金に縛られない生き方を追求しつつも、具体的なお金の悩みなども、率直に語られている。イデオロギーありきで、本音を抑圧するのではなくて、本音を丸出しにしながらも、地道に交流やトークをつづけていく。だからこそ、だめ連は終わることなく、菌類みたいに日陰で増殖してきたのだろう。どんなに除菌しようとしても菌類が滅びることがないように、だめ連的なものは“すみっこぐらし”で生き残っていく。
一方で、2000年の単行本刊行時のあとがきで、神長さんは次のようなことも書いている。
私は、だめ連というこのムーブメントにとりあえず今は、確信を持っている。なぜならば、日々手応えがあるからだ。だがしかし、きっと私たちも、いつか「敗北」してしまうのだろうな。いや、もともと負けている人の集まりだったか(笑)。
この所感は、私自身にも、ずっとあったし、いまもある。そして、勝とうとしないことが、肝要なのではないかと考えてきた。勝とうとする人は、諸矛盾を抑圧し、あるいは隠蔽してしまいがちだ。たぶん、このあたりはアナキズムの根源的な要点なのだろう。
かつて、鶴見俊輔はアナキズムについて、次のようなことを書いていた。
小さい状況に集中すれば、そこにはアナキズムの理想を実現しやすい。それは地域、友人のつきあい、個人の私生活、最終的には個人のある時の観念ということになるが、この種の退行がアナキズムに弾力性をあたえる場合もあろうし、逃避に終わる場合もある。しかし、大きな状況についてだけ考えてゆくとすれば、どのようなアナキスティックな理念も、結局は官僚的な机上地図に転化するだろうし、官僚的支配の一部分にとりこまれてアナキズムとしての活力をなくすだろう。アナキズムを、主として表層より下にあるものとしてとらえることが必要だ。氷山のようにいくらか水面上にあきらかな部分があるとしても、そのあきらかな部分だけに固執して行動する時には、この思想は負けることを運命づけられている。アナキスティックな構想のうみだした何かの行動原則を教条として守ることは、アナキズムのもちうる自在性とは逆のところに運動をはこんでゆく。沈んでいる部分を活用して、自在な行動をつくりだすようでありたい。(『鶴見俊輔集9 方法としてのアナキズム』筑摩書房1991)
だめ連は、「勝ち組でも負け組でもなく、抜け組み」と言っていたりするが、ある意味では、負けることこそ、大事なのかもしれない。資本主義的な枠組みだけから抜けるだけではなくて、自分たちが硬直したイデオロギーに縛られてアナーキーな息吹きを失わないためにも、ちゃんと負けて、自分を縛っているものを常に問い直し続けることが大事なのかもしれないと、自分を振りかえりつつ思う。
関心のある方は、前著『だめ連の資本主義より楽しく生きる』(現代書館2024)も、おすすめ。



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