断裁、生産性、ゴミ……
昨年、共著で刊行した『名前のない生きづらさ』があまり売れておらず、在庫がだぶついているので、このままだと断裁しますと出版社から言われた。断裁というのは、たいへんしのびないが、出版社の側からすれば、売れる見込みのない商品を抱えたまま、倉庫代ばかりがかさむのはかなわないだろう。 共著者の野田彩花さんは、本書で次のように書いていた。 生産性が重視されるこの社会で、私のような「何もしていない」存在は、いないほうがいいのだろうか。「生産性のない」と断じられた存在は、生きていてはいけないのだろうか。 生産性ばかりが価値ではないと訴えた本が、生産性がないがために断裁されようとしている……。 生産性ということで言えば、先ごろ、杉田水脈衆議院議員(自民党)が、LGBTのカップルは子どもをつくらないので「生産性」がなく、税金を使うことは問題だという趣旨の寄稿をして、物議をかもした(『新潮45』2018年8月号)。この暴言の背景にある思想は、そのまま相模原のやまゆり園事件にもつながっているだろう。生産性にしか価値を置かない社会は、誰にとっても生きづらい社会だ。 とはいえ、こうした問題と本の断裁を直結させたいわけではないのだが、あらためて、価値ということについて、もう少し考えたいと思う。 ●命がけの跳躍 マルクスは、「商品は命がけの跳躍をする」と言ったそうだ。マルクスをちゃんと読んでないので、まちがっていたらご指摘いただきたいが、私の理解では、それはこういうことだと思う。 物を加工したりして商品にするにはコスト(労力や費用)がかかるが、どんなにコストをかけても、実際にそれが売れるかどうかはわからない。レストランで調理した料理が余れば生ゴミになってしまうし、売れずにダブついた本は断裁される。それ自体がおいしいとか、読んでおもしろいということ(使用価値)に関係なく、売れなければ(売れ残れば)商品としての価値(交換価値)はなく、「ゴミ」になってしまう。だから、それは命がけの跳躍である。 ●人も商品 商品化社会においては、人も商品だ。小さいころからコスト(勉強する労力や、それに要する費用)をかけて、少しでも高い学歴を手にし、その学歴を就職と交換し、少しでも高く売れる労働力商品になろうとする。しかし、実際に売れるかどうかはわからない。労働力商品として売れ...