なたまめの話-4

伊藤ルイさん、北村小夜さんと渡ってきて、昨年、北村さんからいただた「なたまめ」(なたまめの話1参照)。昨年は遅まきに過ぎて、豆を成熟させられなかったのだが、今年はちゃんと実った。赤と白と2種類あって、それぞれ65粒ほど、あわせて130粒ほどの豆が収穫できた。


さやを割ると、みずみずしい豆がぎっしり。なんとも言えない感触があった。たとえて言えば、赤ちゃんに接したときのようなみずみずしさ。この豆ひと粒ひと粒に、あれだけの蔓を伸ばし、たくさんの豆を実らせるエネルギーが蓄えられているのかと思うと、不思議な気持ちになる。
生命には、適切な条件さえ整えば、みずから伸ばしていく力がある。それを信じたり、大事にしたり、その摂理をよく見ること。それは、たとえば不登校やフリースクールの界隈でも語られてきたことだし、あるいはアナキズムにもつながっているのかもしれない。

◎大杉栄と権力

伊藤ルイさんの父親で、アナキストの大杉栄は、その昔、吉原を歩いていたとき、通りがかりに何やら酒場で揉めているところに立ち会ったことがあったそうだ。酔っ払った男が窓ガラスをこわしたというので、警察を呼ばれていたのだが、大杉はそこでこう言ったという。「この男は今一文も持っていない。弁償は僕がする。それですむはずだ。一体、何か事あるごとに、いちいちそこへ巡査を呼んで来たりするのはよくない。何でもお上にはなるべく御厄介をかけないことだ。たいがいのことは、こうして、そこに居合わした人間だけで片はつくんだ」。それで店主も男も納得したのだが、巡査だけが逆上して「きさまは社会主義だな」と言って大杉を逮捕したそうだ。

権力というのは、権力に従おうとしない人間を感情的に忌み嫌う。権力に対抗するものを抑圧するだけではなく、権力にびびらない、権力に価値をおかない人間をも忌み嫌う。大杉栄と伊藤野枝が殺されてしまったのは、そういった感情からだったようにも思える。
しかし、いまや権力というのは、個々人の外にあって、人を抑圧するものではなく、個々人が内面化しているものになっている。そこが大杉の時代とは大きく異なるのだろう。権力は、わかりやすい「巡査」などではなく、いたるところに設置された監視カメラや、ネットを通じて収集されるビッグデータなどになっている。

◎学校の外は自由か

不登校に引き寄せて考えてみると、かつては、学校の外に出れば、学校という権力から自由になって、そこには豊かな学びがあるように思えたのかもしれない。しかし、いまでは、学校の内にいても外にいても、評価のまなざしは張りめぐらされていて、個々人はそれを内面化してしまっている。

フリースクール関係者などからは、「学校は第2次産業的な古い制度で、これからの時代には、個性や多様性を大事にするフリースクールのような学びのあり方が重要だ」といったことが語られてきた。しかし、学校が古いのではなく、もはや学校と学校の外を分ける構図そのものが古いのではないか。学校の外だというだけでは、子どもがのびのびと生命の力を伸ばしていける環境になるとは言えない。

生命がのびのびとみずからを伸ばしていくような土壌が、学校の内外を問わず、失われてきている。張りめぐらされた評価のまなざしのなかで、いかに土壌を耕していくことができるか。かつてとはちがった、智恵と工夫が必要だろう。フリースクール関係者が依拠してきた古い構図は、遠からず崩れていくだろう。そのガレキのなかから、智恵と工夫を立ち上げていきたい。

収穫できた、たくさんのなたまめを眺めながら、そんなことを思う年の瀬だ。

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