プラスチックのストローのようなもの

プラスチックのストローが問題だから、使うのをやめることにするだとか何だとか、そんなニュースがよく流れている。

なんだか、ごまかされている気がしてならない。

もちろん、プラスチックゴミの問題は深刻だろう。その深刻さを訴えるのに、わかりやすいイメージが必要とされているのかもしれない。しかし、大量に産出され廃棄されているプラスチックのうち、なぜストローをことさら槍玉にあげるのか、むしろ、ストローであれば廃止しても影響が少ないから、槍玉にあげているのではないかと疑ってしまう(しかし、製造している会社だとか工場はたいへんにちがいない)。

問題を直視すると、たいへんすぎるから、スケープゴートのように何かを槍玉にあげて、マスコミはそれに飛びついて、くり返し報道する。見ている人はわかったような気にさせられてしまう。あるいは何かよいことでもした気にさせられて、ごまかされてしまう。問題の構造は温存されたまま変わらない。そういうことが、よくあるように思う。

●夏休み明けの問題は

不登校やひきこもりについても、同じような光景をよく見る。たとえば、ここ数年、過熱気味に報道されている夏休み明けの自殺問題も、プラスチックのストローと同じとまでは言わないまでも、同じような構造のなかで報道されているように思えてしまう。あたりまえのことだが、子どもが自殺にまで追い込まれてしまうのは、夏休み明けだけが問題なわけではない。

各地で取り組まれている夏休み明け前のキャンペーンなどに意味がないとは思わないし、私の関わるフリースクール・フォロでは、いち早く取り組んでもきたのだが、どうも問題がプラスチックのストロー的なものになってしまったような違和感がある。マスコミ報道などでは、伝えたい人に伝えたいことが伝わっているような感じがしない。
なんだか、とってももやもやする。
その違和感やもやもやについては、もう少し考えて、また文章にしてみたいと思っている。

>つづく



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