休むのは戻ることが前提?

先日のブログ記事について、ある不登校経験者の方から、「休むって、休んだら、またがんばる(戻る)ことが前提って印象。私の場合は、とにかく好きにさせてくださいよって感じがいちばん近い」というコメントをいただいた。

そうそう、そこが大事なところなんだよなと思いつつ、なかなか言語化して整理しにくいところで難しい。自分の頭を整理するために、もう少し、このあたりについて書いてみたい。

休むことは、不登校している人よりも、むしろがんばって学校に行き続けている人にとって大事なことだろう(ちなみに英語では、欠席=absentに、休む=restという意味はないそうだ)。しかし、不登校している人にとっては、休む=復帰を待たれているというのでは、不登校への否定的なまなざしは変わらないと言える。

逆に、「不登校を選択肢のひとつとして、学校外で学ぶことを認めてほしい」というと、こんどは休むことも許されず、不登校でも学んでないと認められないことになってしまいがちだ。そうなると、休んだり、逃げたり、撤退するということへの否定的なまなざしは変わらなくなってしまう。
水木しげる記念館(境港)にて。軒下で砂かけ婆がお休みでした。

前門の狼、後門の虎のごとし。どっちに転んでも、否定的なまなざしから逃れられない(そのあたりは、貴戸理恵さんが指摘してきたことでもある)。多様な教育機会確保法案をめぐる議論がかみ合わないのも、根っこのところでは、このへんの問題があるように思う。

何事も現実には両面性(多面性)がある。当事者は、その両面性(多面性)の現実を生きている。それは矛盾を生きているということでもあるだろう。ところが、親や支援者など周囲は、自分の価値観に沿った部分だけを拾って、語ってしまうことが多い。そもそも言葉というのは、ある側面しか切り取れないものでもあるが、語られたことの反面を見ないようにしたり、抑圧してしまわないことが大事なのだろうと思う。

そのことをよく自戒したうえで、さらに言えば、不登校というのは、たんに学校を拒否しているというだけではなくて、学校の価値観、いまの社会の価値観(「する・できる」にしか価値がないというような)への違和感が、根っこのところにはあるように思う。そこを問わないまま「休む」といっても「学ぶ」といっても、苦しいのではないかと思う。
社会の価値観は、簡単には変わらない。だからこそ、根っこの問題意識を見失わずに、矛盾を抱えつつ、考えていくことが必要なのだと思う。

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