「デクノボーになりたい」とは言えても……

先の記事で、価値を低く見積もられても、切り捨てられても、だからこそ、そこに立ち続けたい、と書いた。それは、まあ、私の勝手な矜恃だ。しかし、価値を低く見積もられることの問題というのは、フリースクールや居場所関係者にとってよりも以前に、不登校やひきこもりの当事者に向けられるまなざしの問題だろう。

学校に行かなくなったり、ひきこもったりすると、周囲からは価値のない存在とまなざれる。それは、価値が低いどころか、否定のまなざしであるし、当事者にとっては、存在の根本にも関わる問題だろう。

そこで、「学校に行かなくても社会でやっていける」「学校外でもちゃんと学べる」というような主張が出てくるのは、当然と言えば、当然なのかもしれない。それを否定することはできない。また、不登校やひきこもりから社会的に成功する人がいても、それ自体を批判したり否定する必要はまったくない(ややもすると、それは、ただのやっかみになるだけだろう)。

しかし、不登校やひきこもりを否定視する価値観と対峙しないまま、方法論としてのみ、多様な学び方があるとか、「学校に行かなくても社会でやっていける」というばかりでは、そのツケはどこかでまわってくるだろうなと思う。少なくとも、当事者ではなく、フリースクールや居場所関係者など、周囲の人間がそういう言説をふりまくことは、慎むべきだろう。

一方で、低く見積もられても、切り捨てられても、そこに立ち続けたいなんて言うのは、自分の勝手な矜恃としては言えても、当事者に求められるものではないと思う。「デクノボーになりたい」とは言えても、「デクノボーになりなさい」とは言えないし、言ってはならない。

このあたりを、当事者に向かって言いうるとしたら、「自分のなかのデクノボーの部分を大事にしよう」ということだろうか……いやいや、やっぱり、それも説教くさいような気がする。言葉で語るより、デクノボーとして黙然と立ち続けていれば、それでよいのだろう(ついつい饒舌に言葉にしてしまうあたりが、まだまだデクノボーにはなれない証左だ)。

デクノボーになりたいとは言えても、なかなか、簡単にはなれそうにはない。

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