フリースクールに行ったら本当の不登校になる? のつづき。

フリースクールに行ったら自分が本当の不登校になってしまうから」について、もう少し考えてみたい。実際、ご本人がどういう気持ちで言われたのかはわからないが、私自身が出会ってきた人たちとの関係で考えたとき、ここには「ふつう」から分けられたくない、という気持ちがあるように思える。あるいは「ふつう」でなくなってしまったとは思いたくない、という気持ち。それを「学校信仰」という言葉で片づけてしまってはいけないように思う(参照した石井志昂さんの記事で、そう書かれているわけではないが、不登校運動のなかでは、そういうふうに片づけてきてしまった面があるように思う)。

話が横道にそれるようだが、先日、喫茶店で隣にいたママ友どうしと思われる2人が、こんな話をしていた。就学時健診で子どもが発達障害と診断されて、特別支援教室に入れられることがある、自分の子どもは普通学級だったけれど、お友だちは特別支援教室に行った、でも、親はそれを認めたくないようだ……。話された方は、とまどいとして話されていたように思うが、聞いていた方は「でも、ほかの子に迷惑かけてるわけやん。それを認めへんのっておかしいんちゃう。それって親のエゴやん」と返していた。話はそのまま、ほかに流れていったのだが、横にいた私は割って入ることもできず、もやもやしていた。自分の子どもが「ふつう」から分けられてしまうことに抵抗感を覚えるのは、親のエゴだろうか?

「ふつう」から分けられてしまうことへの抵抗感を、本人(親)の意志や気持ちの問題として片づけてはいけないのではないだろうか? もちろん、不登校に対しても、発達障害に対しても、そこに偏見や差別があることは問題だ。本人(親)自身、その偏見を内面化していることはあるだろう。みずからの偏見ゆえに、「ふつう」からズレることが苦しいということもあるだろう。そこで、それを問い返すには、学校ではない居場所、発達障害の当事者グループなど、世間の見方とはちがう価値観との出会いが必要にちがいない。しかし、それは「ふつう」の外にあるのではなくて、「ふつう」を問い返す磁場として必要なのではないだろうか。「ふつう」の外に追いやって、それをダメな子と見なすのも、才能のある子とみなすのも、どちらも排除にはちがいない。

「障害児を普通学校へ」の運動に関わってきた北村小夜さんは、「ふつうは、いいところじゃない。シャバなんだ」と言う。「いいところ探しを始めると、特殊になってしまう。だから、いいところ探しはやめよう。それよりも、いま、自分のいるところを少しでもいいところにしていこう」と。私が、「でも、そのシャバの寛容度が低くなってきたから、子どもが苦しんできたわけですよね」と問うと、「ふつうが狭まってきたからね。できる子も、できない子も分けられてきたから、ふつうがどんどん狭まってきた」と話されていた。(不登校50年証言プロジェクト#22北村小夜さん

私自身、ずっとフリースクールに関わってきているので、フリースクールを特殊な場ではなく「ふつう」の場にしたいという気持ちはわかる。しかし、実際問題として、多くの不登校の当事者にとって、それは「ふつう」の向こう岸になってしまう。良し悪しは別にして、「ふつう」から降りなければ、なかなか向こう岸には行けない。そこに、とまどいや抵抗感が生じるのは当然だろう。実際にフリースクールに通ったからといって、それが消えるとも思えない。でも、そのとまどいや抵抗感こそ、大事なのではないか。そんなふうに思える。

大事なところなので、乱暴にまとめることは避けて、森毅さん(数学者/1928―2010)のインタビューの言葉を紹介して終わりたい。

ワクから外に出きってしまうと、そこにそれなりの安定があったりする。ワクからはずれてアウトローの秩序に入ってしまったりね。私は、ワクすれすれが性に合っとるんやね。(中略)しかし、昔に比べると帰り道が少なくなっているような気がしますね。(中略)境目のところが刈り取られて無人地帯みたいになってしまって、境目をフラフラすることができなくなった。いったんアウトに行ったら、ぽーんと行ってしまう。気楽に仲間からはずれて、気楽にもどることができるのがいい集団だと思う。
(中略)
自然水路というのは、岩があったり、ゆるやかになったり、いろいろでね。岩があったら、かならず乗り越えなきゃいけないものでもないし、かならず逃げなきゃいけないものでもない。そのときどきで、さまざまに流れていきますよね。それが自然というものでしょう。「人生には岩があったら乗り越えるべきだ」と言う人もいるけど、20メートル先に行ったら同じこっちゃね。
(中略)
どないなっても、なんとかなるで(笑)。
『この人が語る不登校』全国不登校新聞社編/講談社2002

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