フリースクールに行ったら本当の不登校になる?

「フリースクールに行ったら自分が本当の不登校になってしまうから」
不登校新聞の編集長、石井志昂さんは、不登校している子どもの大半がフリースクールには通っていない事実をあげて、その理由には、数が足りないこと、経済的な理由、心理面のハードルの3つがあると指摘、心理面のハードルの例として、「フリースクールに行ったら自分が本当の不登校になってしまうから」という、ある女性のコメントを紹介していた。(「ぶらり不登校」AERA.dot 2017/06/22

この女性のコメントは、とても大事なことを語っているように思う。でも、それをフリースクールに通う際の「心理面のハードル」としてよいのだろうか? たしかに、こういう心情から、フリースクールに通ってみたいと思っても、足を踏みとどまらせてしまうことはあるだろう。しかし、意識したり言語化したりしているかどうかは別にして、こういう心情は、フリースクールに現に通っている人の多くも、持っているように思う。

石井さんは、不登校経験者であり、フリースクールに通っていた経験がある(そして当時、石井さんが通っていたフリースクールで、私はスタッフをしていた)。石井さんにとって、不登校になったあとフリースクールに通った経験は大きい意味を持っていて、それゆえ、不登校の子どもの大半がフリースクールに通っていないことはなぜなのか、という視点から記事を書いているように思う。しかし、実際問題としては、不登校という文脈と、フリースクールという文脈は、重なる部分はあっても、同じではない。
そのあたりについて、私は、近著で次のように書いた。

不登校の当事者運動のなかでは、学校に行かないことを、フリースクールやホームエデュケーションに置き換えることで、学校に対置しうる教育(=選択できるもの)として位置づけようとしてきたと言える。ここに、問題がねじれてしまう、最大の要因があるように思う。
不登校という名前は、それ以前に比べれば淡白になったとは言え、やはり、そこには学校に行かないことを異常視するような、名づける側のまなざしがある。しかし、それを周囲がフリースクールやホームエデュケーションなどの名前に置き換えて、世間に理解しやすいストーリーに組み替えてしまうことも、本人不在と言えるだろう。

不登校というのは、経済的な理由や病気でもないのに学校を長期に休むことが異常視されて、名づけられたものだ。学校を休むことを許さないまなざしが、不登校への「心理的ハードル」となって、子どもたちを苦しめていると言えるだろう。

石井さんは、学校以外の選択肢がないから、「どんなに苦しいいじめがあっても、そこに毎日通わなければならない」「不登校を許さない社会が彼らを追い詰めたんではないか」という(前掲記事)。しかし、休むことを認めることと、学校外の選択肢を増やすことは別問題だ。そこをイコールで結んでしまうと、大半の不登校の当事者のリアリティとは、ズレてしまうのではないだろうか。

ここには、まだ考えたいことがいろいろあるが、機会をあらためたい。
>つづき

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