起承転々……

迷子の時代を生き抜くために』を書いたとき、ある親の会の方から、「これまで、学校信仰の代わりにフリースクール信仰を抱いていたことに気づきました」という感想をいただいた。私が「迷子」と言ったのは、いわば「正解」がないことをそのままに(迷子のままに)生きていければいいのでは、ということだったのだが、なかなか、それは難しいのかなと感じることが多い。どうしても、学校に代わる「信仰」は求めてしまうし、それを引き受ければ、フリースクールも商売としてはうまくいくのかもしれない。でも、それでは、極端に言えば、不登校を「治す」壺だとか聖水と変わらなくなってしまう(また、怒られそうだ……)。

たとえば、マスコミの人に取材なんかを受けたとき、ある程度、話が通じるかなと思う人でも、どうしてもズレるところがある。それは、相手は起承転結を求めていて、その「結」がないと、どうしても納得しない、というところだ。活動としては、「結」なんて求めていなくて、いわば起承転々、永遠に転がっている感じでやっている。With no direction home, Like a rolling stone(家に帰る道もなくて、転がる石のようにbyボブ・ディラン) とか言ったら、カッコつけすぎだけど、「結」を求められると、どうしても、うさんくさく感じてしまう。

一例を挙げれば、当事者研究がおもしろいのは、たぶん「結」を求めてないからだろう。そういう下心(?)を置いて、虚心坦懐に人の話を聴いていると、「結」に縛られない話が、いろいろに出てくる。それがおもしろい。最近、斎藤環さんが流行らせた「オープンダイアローグ」なんかも、似たような感じなのかもしれない(よく知らんけど)。
先の記事で、「ふつう」からズレてしまったとき、そこに生じるとまどいや抵抗感こそ大事なのではないかと書いたが、私のなかには、フリースクールなどが学校に代わる「信仰」「結」になることへの抵抗感もあるのだと思う。もちろん、個々人が「結」を得ることが問題だとは思ってない。ただ、「結」が見えなくても、森毅さんが「ワクすれすれ」「境目をフラフラ」「どないなっても、なんとかなるで」と言うように、起承転々……と、転がり続けていくのも、楽しいことなのだと思う。

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