休み、怠け、サボり、ぐーたら……その1

先に書いた「不登校=寄生虫説」には、いろいろご意見をいただいた。「不登校の子どもを寄生虫扱いするのはどうか」というご意見はごもっともと思うが、寄生虫になぞらえて言いたかったのは、排除の問題である。もう少し、このあたりについて考えてみたい。

●排除の問題

たとえば、「不登校を認めろ」という異議申し立てと、「障害児を普通学校へ」という異議申し立ては、どちらも「ふつう」から排除してくれるなという意味では同じことのように思える。一見、反対の方向のように見えて、どちらも排除の問題と言える。

しかし、障害児については学校から排除された問題としてわかりやすいが、不登校についてはわかりにくい。なぜなら、不登校の「解決」は学校復帰とされてきて、学校から逃げることができない問題でもあり続けてきたからだ。

では、不登校では何が排除されていると考えたらよいのだろう。

ひとつには、子どもが学校にいられなくなってしまうというのは、本人が好んで選んだことではなく、排除された問題だとみることができるだろう。そうすると、問題への対応としては、不登校を本人の問題行動とみて指導するのではなく、学校状況の問題だとみて、学校状況を改善していくことこそが必要だということになる。最近の文部科学省の見解は、そういうものになってきていると言えるだろう。

その学校状況の改善に、学校制度の多様化までを含めれば、教育機会確保法推進の論調と重なってくる。その場合、既存の学校であろうと、多様な「学校」であろうと、そこでは「学校」への包摂が不登校の解決ということになるだろう。ただし、それが不登校を特別な「学校」に囲い込んでしまうことになれば、かえって排除を強めてしまうことになってしまう。法律への反対意見には、その問題提起もあった。

●休むことが排除されている

でも、それだけでは何かが漏れ落ちてしまっているように思える。学校から排除されているものが、ほかにもあるのではないか。不登校が認められないというのは、どういうことだったのか……。不登校というのは、経済的理由や病気などの理由ではなく、学校を長期欠席すること、つまりは学校を休むことだ。よほどの理由がないかぎり、学校を休むことが許されないのが、これまでの学校のあり方だった。そう考えると、学校からは休むことが排除されてきたと言えないだろうか。学校から休むことが排除されているからこそ、不登校は問題視され、否定視され、そのまなざしに当事者は苦しんできた。また、休むことが排除されている学校だからこそ、学校は子どもたちがいられないような場となって、多くの子どもを排除してきたとも言える。そう考えると、学校は休むことを包摂しなければならない。教員も児童生徒も、理由なんかあろうがなかろうが、大手をふって休むことができるようにすること。それは、不登校の「解決」のひとつにはなるだろう。

ここで押さえておきたいのは、不登校=無登校ではないということだ。文科省の調査によれば、年間30日以上欠席の不登校児童生徒13万4398人(小・中学校)のうち、出席0日は1961人、不登校全体の3.7%だ。出席10日以下の人数でも1万4834人で、不登校全体の11%にすぎない。逆に、不登校全体の4割ほどは、30日~89日までの欠席となっている(2016年度「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」)。
不登校を認めるというのはどういうことか、いろいろな論議があると思うが、さしあたっては、休むことを認めるということが、第一になるのではないだろうか。私は「誰もが安心して不登校できる学校を」と言ってきた。しかし、そのためには、休んでも不利益にならないことが求められる。

●怠け、サボり、ぐーたらの保証を

もう少し、考えてみたい。休むことというのは、「学校」で再びがんばるための休憩にすぎないのだろうか? がんばるための休憩だったら認められても、怠ける、サボるだったら、認められないのだろうか? でも、休むことを排除してきた学校がなぜしんどいかと言えば、勤勉価値みたいなものが、すみずみまで行きわたりすぎたからではなかっただろうか? だとすれば、休むことを認めるというのは、再びがんばるための休憩のみを認めるのではなく、勤勉価値を相対化し、出し抜くことのできるような、怠けやサボりこそを認めるべきだろう。多様な学びよりも、ぐーたらな時間や空間の保証を。多様な学びが多様な勤勉さになってしまったら、子どもの逃げ場はますますふさがれてしまう。
学校「身体」に、ぐーたらを寄生させること。学校には、二宮金次郎像の代わりに、サナダムシの像でも建てよう。それで思い出したが、鳥取の境港には、水木しげる先生の銅像があって、そこにはこう刻まれている。

なまけ者になりなさい。

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