「立場」について

東京シューレの出身者で、「明るい不登校」や不登校を「選択」とする言説を徹底して批判していた常野雄次郎の遺文集を読んだ(販売はされていないが、かなりの文章は彼のブログで現在も読むことができる)。まとまって読んでみて、あらためて彼の思想の一貫性と徹底性に感じ入るとともに、いろいろ考えさせられるものがあった。

そのひとつは、ものを書くときなどの「立場」についてだ。この記事では、そのあたりのことについて、ちょっと考えてみたい。

たとえば、常野は次のように言う。

伝統的な客観性の概念は、研究者に調査活動から自らのアイデンティティーを引き離すことを要求します。しかし、以下のような問いがなされなければなりません:そのような「分離」は実際に可能なものなのか? 「『アルキメデスの』点――つまり、社会におけるいかなる特定の位置とも無縁な点」にあると称することができるのは誰なのか?
調査する者とされる者の終わらない関係 第1回 調査者を位置づける

「逃げろ」。だが誰がどんな立場で「逃げろ」と言うのだろうか?
どこか遠く離れた惑星の宇宙人と交信しているのであれば客観的なアドバイスもありうるだろう。だが我々は「観客席」にいるのではない。もう一度繰り返す。我々は一つの全体の中に関係し合いながら生きている。「観客席」はない。「ないものはない。残念ながら、あなたも立派な当事者だ」。
「逃げよ。しかし逃げながら武器をつかめ」

彼は、このあたりを徹底して考え抜いていたがゆえに、苦しかったのだと思う。しかし、その苦しさは、ものを考えたり書いたりするうえでは必然のものだとも言える。苦しくないとしたら、それはよほど鈍感か、自分の「立場」を見ないことにして、ないはずの「アルキメデスの点」あるいは「観客席」に座っているつもりの人だけだ。

しかし、たとえば報道は「客観・中立・公正」でなければならないと言われたりする。偏向報道はよくない、不偏不党、客観的事実を報道するのがジャーナリズムではないか、と。一見、もっとものように思えるかもしれない。だが、たとえばジャーナリストの本多勝一は次のように言っていた。

真の事実とは主観のことなのだ。主観的事実こそ本当の事実である。客観的事実などというものは、仮にあったとしても無意味な存在であります。
(本多勝一『事実とは何か』朝日文庫1984)

それがなぜかと言えば、無限にある「事実」のなかから、記者は取捨選択をしているのであって、その選択は主観によってなされているからだという。本多は「立場のない立場はない」「書かれたものにはすべて立場がある」と言う。

そして主観的事実を選ぶ目を支えるもの、問題意識を支えるものの根底は、やはり記者の広い意味でのイデオロギーであり、世界観ではないでしょうか。全く無色の記者の目には、いわゆる客観的事実(つまり無意味な事実)しかわからぬであろうし、その全風景を記録することが前述のように不可能である以上、もはや意味のある選択はできずに、ルポ自体が無意味になります。
 新聞記者とは、この主観的事実で勝負するものでなければなりますまい。いわゆる客観的事実の記事とは、言い換えれば「堀りさげた取材をしない記事」にすぎず、それはPR記者の記事であります。体制の確認にすぎません。(前掲書)


あるいは、同じくジャーナリストの浅野健一は次のように言う。

ジャーナリストにとって、あるいはジャーナリズムでもいいんですけど、「公正とか公益とか中立とはなにか?」という話を、僕は若い記者にするようにしています。客観的な公平とか公正、中立なんてないよと言っているんですね。日本の新聞は戦後そういうものがあるかのように振る舞ってきましたけど、これはありえないんですね。
(略)
新聞記者がやじろべえだとして、「私は真ん中に立ちます」とやったとしましょう。権力の側は絶大な力を持っていて、虐げられている市民に力なんてありませんよね。そうしたらやじろべえは、権力の側にガクッと行っちゃうでしょ。だから最初は、市民の側に立って見ないと、公平な立場には立てないし、そうしてようやくバランスが取れてから公正、中立に近づけるわけです。(略)基本的には反権力の立場でものを見ないと、権力と市民とのあいだで客観報道なんてありえないんです。こうしたことをしつこいくらい言い続けているんですけど、これがわからない人は1%の側に行っちゃうんですね。
(冤罪とジャーナリズムの危機—浅野健一ゼミin西宮報告集/鹿砦社2015)


本多勝一とか浅野健一とか、年輩のジャーナリストを引き合いに出してしまったが、いま読んでも、これらの指摘は妥当だと思う。

ここまでは、ものを書く際の「立場」について見てきたが、こうした「立場」の問題は、学者やジャーナリストだけの問題ではない。たとえば、スクール・セクシュアル・ハラスメント防止全国ネットワーク代表の亀井明子は「中立は加害者側になる」と言っている。学校で性被害などがあった際、相談を受けた側が「中立の立場で話を聞こう」とすると、強い立場である教師側の肩を持つことになってしまうのだという。また、そもそもスクールセクハラは、教師が自分の権力に無自覚であるがゆえに引き起こされているのだという(池谷孝司『スクールセクハラ』幻冬社2014)。

中立のつもりは、自分の権力性の無自覚さを露呈していると言えるだろう。もし、自分はイデオロギーに縛られていないとか、自分は客観的だと思っているとしたら、それは自分のイデオロギーや立場に無自覚でいられるだけの強い立場、あるいはマジョリティの側にいるときだ。そして、ものごとを問うことができるのは、常に弱い立場やマイノリティの側だと言える(さらに言えば、マイノリティの社会運動であっても、その組織の主流にいる人は自分の立場に無自覚になりやすいと言えるだろう)。

そしてまた、自分が弱い立場やマイノリティの側に立てると無自覚に思うのも、厚顔無恥なことにちがいない。自分がすでに立ってしまっている立場をよく自覚して、そのうえでどこに立つのかをきちんと意識しなければ、無責任になってしまうだろう。

あるいは、ひとつの立場のなかにも、さまざまな立場がある。上記に引用した常野のブログ記事では、フェミニズムのなかで、同じ「女性」といっても、そのなかに人種や階層差があることが指摘されるようになり、その差異のなかで、はてしなく対話していくことが弁証法的な関係になるという理論などが紹介されていた。

「不登校」や「ひきこもり」についても、同じことが言えるだろう。同じ「不登校」「ひきこもり」といっても、地域差、家庭の階層差、性別、「障害」の有無など、さまざまにちがいがある。マイノリティが社会に異議申し立てをしていくとき、ひとつの「立場」を明確にして、もの申していくことは重要だが、そのなかにある差異を抑圧してしまってはいけないだろう(そのあたりは以前にも書いた→「登校」「不登校」を二項対立にしないこと)。ひとつの「立場」に安住できないことは、その「当事者」にとっては、きついことかもしれないし、いったんは安住できることも大事かもしれない。しかし、はてしない対話をしていくことこそが、ほんとうの意味での安心につながっていくのかもしれないと思う。深く深く自戒を込めて、そう言いたい。

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