「まちがっているかもしれない」という認識

いじめの場合でも、セクハラやパワハラなどの場合でも、被害者を苦しめ続けるのは、その被害が被害として相手に受けとめられないことではないか、と思う。私のこれまでの関わりのなかでも、中学時代にいじめに遭い、その後、何年経っても、その苦しさが癒えることなく、続いている人がいる。


●宛先のない苦しみ

それは、宛先がないことの苦しみなのだと思う。いじめの加害者は、たいてい遊び感覚で、加害行為の認識もない。まして、過去のことであれば忘れ去ってしまっていて、被害者からすると、被害を被害として受けとめ、謝ってくれる人がいない。

セクハラやパワハラの場合も、多くの場合は、その人の感覚からしたら加害の感覚はなくて、ほんとうのところは何が悪いのかわからない、ということが多いのではないだろうか。

それが裁判などで争われることになって、謝罪や賠償を得ることがあったとしても、その実、加害者側は何がどう加害だったのかはピンと来ていなくて、文字通り形式だけの謝罪に終わってしまうことも多いように思う。むしろ、内心では相手のほうが過敏だとか、自分のほうが被害者だと思っていることもあるのではないだろうか。そして、そういう「本音」は言外に被害者にも伝わる。だから、形式的には決着のついたように見える事件でも、被害者にとっては、そこでは問題は終わらない。


●「あたりまえ」の感覚の問題

自分の加害を認めるというのは、とても難しいことなのだと思う。加害しているつもりはなかった、悪意はなかった、悪気はなかった、遊びのつもりだった、コミュニケーションのつもりだった、同意していると思っていた、覚えていない、酒に酔っていた、などなど。くり返される、そうした言葉は、おそらくは本心なのだと思う。そうだとすれば、その感覚そのものが、加害行為の温床だったということではないだろうか。

問題なのは、そこに力関係があるということだ。自分の感覚のほうがあたりまえで、相手のほうが過敏だと感じるとしたら、それは、自分の感覚をあたりまえにできるだけの状況や力関係があって、自分のほうが強い立場、あるいは多数派の側にいるということかもしれない。たとえば、ヘテロセクシュアルの人が遊び感覚で言う性的な冗談は、セクシュアルマイノリティの人を深く傷つけることも多い。学校に行くことがあたりまえの人の感覚は、意図せず不登校している人を傷つけることもよくある。あるいは、定型発達の人の感覚でつくられた社会の常識は、多くの発達障害の人を困らせている。


●「まちがっているかもしれない」という認識

自分の感覚はあたりまえではない。でも、そのことに自分で気づくのは難しい。だから、必要なのは「まちがっているかもしれない」という認識だと思う。少なくとも、自分自身にできることとしては、そのようにわきまえておくことが大事だと思う。

ただ、自分がいかに心がけていたとしても、相手がそうしてくれるとはかぎらない。とくに、強い立場にいる人は自分を疑う必要がないから、タチが悪い。その言動がエスカレートすれば、いじめやハラスメントになってしまう。そういう場合は、被害者はまずは逃げることが必要だし、それが加害行為であることを訴え、その行為を指弾することも必要だろう(それ自体、たいへん困難なことにちがいないが)。

そして、もし加害者本人が聞く耳を持たないとしても、周囲は、その声を聞かなくてはならない。なぜなら、周囲が傍観していたら、それは加害側に立っているのと同じことになってしまうし、加害行為は「なかったこと」にされてしまうからだ。そして、聞く耳を持つというのは、自分の感覚をあたりまえにせず、相手の感覚の側に立とうとすることなのだと思う。

しかし、自分は「まちがっているかもしれない」というわきまえは、何度もまちがいを犯して、痛い目に遭わないと持てないのかもしれないと思う(それは、私がそうだというだけかもしれないが……)。だから、他者からの批判は大事にしたいし、逆に、誰かの言動を「まちがっている」と思ったときは、「あいつはまちがっている、自分は正しい」と思って指弾するのではなくて、「自分もまちがっているかもしれないけど、まちがったときは素直に認めよう」と言いたいと思う。

自分の感覚をあたりまえにしていると、意図せず人を傷つけてしまうことがある。しかし、そこで気づいて、まちがいを直していくこともできるのではないか。だから、「まちがっているかもしれない」という認識は大事だと思う。もちろん、すでに顕在化している加害・被害関係においては役立たないことも多いかもしれないが、少しずつでも、そういう認識が共有されていけば、いじめやハラスメントを抑止していくことにつながるのではないか。理想にすぎるないかもしれないが、そう思いたい。

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