居場所とコロナと信頼と

緊急事態宣言が解除され、新型コロナウィルス感染も、第1波は収束しつつあるようだ。今後、長期にわたって波をくり返しながら、じょじょに収束へと向かっていくのだろう。ちまたでは「withコロナ」という言葉も聞かれるようになった。

それにしても、なんとも悩ましい。感染防止と社会経済活動とのバランスをはかるといったことは、あちこちで言われているが、ここで考えたいのは、人や環境への信頼が揺らいでしまっているなかでの、「居場所」のあり方の問題だ。私の関わるNPO法人フォロでも、ぼちぼち場を再開していくことにしたが、経営の問題が厳しいのはもちろん、今後、どうやって場を開いていったらよいのかは、たいへん悩ましいものがある。

いま、誰もがマスクを着け、人との距離は2メートルを確保することが求められ、人に近寄るのも怖くなってしまっている。ふれるものすべてが疑わしく、あらゆるところにアルコール消毒薬が置かれ、ひんぱんに手洗いをせねばらならず、お店のレジにはビニールの壁が立てられ、無症状でも感染の可能性はあると、あらゆる人や環境が脅威の存在となってしまっている。そうした状況のなかで、おしゃべりしたり、いっしょにご飯を食べたり、ごちゃごちゃしながらもいっしょに過ごすことを大事にしてきた居場所の活動などは、どうやってやっていけるだろうか……。

もちろん、私だって感染するのは怖い。自分だけの問題ならまだしも、自分が感染して、ほかの人にうつしてしまっては申し訳ない。だから、感染防止策は必要だと思うが、一方で、人や環境への信頼がなくなってしまっていることが、なんとも悩ましく思う。とくに、子どもたちは気の毒だ。暑くなってきているなか、頭から湯気を出しながらマスクを着けて遊んでいる姿を見かけると、つい「はずしちゃいなよ」と言いたくなってしまう。保育園などでは、保育士さんがマスクをはずしてしまう子を叱らざるを得ず、現場はたいへんな状況になっていると聞いた。第一、小さい子どもたちが「ソーシャルディスタンス」を確保しながら過ごすなんて、ムチャな話だ。

自分の周囲は基本的には安全で安心できるけれども、ときには危険なこともあるというのと、基本的に危険で不安だから、安全のためには周囲を常に警戒しなければならないというのとでは、まったくちがう。この状況のなか、子どもたちは、どうやって、この世界や人々を信頼していけばいいのだろう……。


●信頼と信用

いつぞや何かの本で読んだのだが、信頼(trust)というのは、根拠はなくても信じられることで、信用(credit)というのは、根拠があるから信じるということだそうだ。そういう意味では、この世界を基本的には安全だと思うのは、信頼(trust)なんだと思う。実際には、災害だってあるし、交通事故だってあるし、病気や感染症だってある。それでも、基本的には、この世界を信頼して生きている。

信頼するというのは、自分を他者や世界に向かって、開くことなのだと思う。ときどき痛い目に遭ったり、傷ついたりしながらも、それでも自分を開いていく。あらゆる危険を排除し、根拠がなければ信用しないということになれば、どこまでも自分を閉じていくほかない。もちろん、場合によっては、世界を信頼できなくなってしまうほど傷ついてしまうことはあって、それを精神医療では「トラウマ」と呼んだりするのだと思うが、その場合も、その回復は、周囲や世界への信頼を取り戻していくことにあるのだろう。いずれにしても、いまの私たちに必要なのは、感染リスクを承知のうえで、この世界への信頼を取り戻していくことなのだと思う。

傷ついた人が他者への信頼を取り戻していくには、たとえば人に迷惑をかけても関係が修復できたり、トラブルやゴチャゴチャがあっても、それをいっしょに考え合い、修復していくプロセスが必要だろう。そういう意味では、新型コロナウィルスについても、仮に感染があったとしても、日常を回復できるということが必要なのではないだろうか。もちろん、生死にかかわる場合があり、回復できないということもあり得る。だからこそ、悩ましいのだが、それでも、感染を絶対にあってはならないものとしているかぎり、この世界への信頼を取り戻していくことは難しいように思う。感染者が出る可能性はある。もしかしたら、死者も出てしまうかもしれない。それでも、リスクを承知のうえで、自分を他者に開いていく。あるいは、居場所などの場を外に向かって開いていく。それは、おそらく、どんな個人や場においても、いま考えなければいけないことなのだと思う。

以下は、居場所などを開いていくうえで必要だと思う、個人的な所感だ。ほかの人と考え合っていくための契機のひとつとして、書き出してみたい。


●居場所を開いていくうえで分かち合いたいこと

・悩ましさを共有すること

感染症対策は、これで充分というところは、ほんとうのところはわからない(わからないからこそ、神経質にならざるを得ない)。また、それを場の参加者に求めることのキュークツさや、とくに子どもに与えてしまうマイナス面はある。いずれにしても悩ましく、その悩ましさを共有しながら、考え合っていくほかない。これが正しいはずだと、正しさを主張し合うのではなく、わからなさ、悩ましさ、不安などを共有しながら、考え合っていくことが大事ではないか。

・個々人の不安や葛藤を抑圧しないこと

場に責任を持つ人(スタッフなど)は、その責任感と自分(あるいは家族など)を守ることのあいだで、葛藤せざるを得ない。その際、個人よりも場を優先させて、個々人の葛藤を抑圧してはいけないと思う。場のために個人を犠牲にするのでは、本末転倒になってしまう。個々人の不安や葛藤を抑圧せず、むしろ出し合って共有することが、場を開いていくうえで大事になってくるのではないだろうか。

・個々人の感覚の尊重

状況認識にしても、感染症対策のとり方にしても、個々人によって感覚の差はあるので、その個人差は尊重されないといけないように思う。場のルールは決める必要があるが、どこまで徹底すべきか、守らない人がいた場合にどうするかなど、これも悩ましい。ただ、自分の感覚から相手を責めるのではなく、なぜ、それが必要なのか、あるいは不要と思うのか、自分はどうしてほしいか、場の責任としてはどう考えているかなどを、言葉にして話し合っていくことが必要のように思う。

・誰も責めないこと

もし、感染症者が出た場合、けっして、その人を責めてはならないと思う。また、自分が感染してしまった場合にも、自分を責めたり、謝ったりしてはいけないのではないかと思っている。仮に不注意があったとしても、感染者を責め、謝らせるようなことは、してはいけない。どんな場においても、感染者は出るものという前提に立つ必要があるのではないか。そうでなければ、感染者はかえって隠れてしまう可能性もあり、感染拡大に寄与してしまう可能性すらある。

・責任について

とはいえ、いざ感染者が出た場合は、予防策が充分だったのか、集団感染を発生させていないかなど、場の責任は厳しく問われることになる。しかし、責任逃れのように聞こえるかもしれないが、その際、管理する側だけの責任にしてしまうのは、不幸なことだと私は思う。管理責任を重視すればするほど、際限なく注意を払わなければならなくなり、監視や排除が強まってしまう。理想にすぎるかもしれないが、一方が責任を持ち、一方は利用するだけという関係ではなく、グラデーションはあっても、参加する人たちが責任を分け持つということでありたい。


●商品関係ではない関係を

それはまた、サービスの提供者と利用者という関係ではなく、ともに考え合う関係をつくっていくということでもある。以前にも同じことを書いたが、お金を払えば、それに見合ったサービスを提供されるという関係(商品関係)だけが社会関係ではない。小さくとも自分たちでともに考え合い、悩ましさ、不安、葛藤、リスク、そして責任を分かち合いながら、場を営んでいくことが、いまだからこそ、大事なのではないか。

それは、大きな組織では難しいことなのかもしれない。でも、小さな場であれば、それは可能なことのように思う。世界への信頼は、身近な小さなところから取り戻していくほかない。悩みつつ、葛藤しつつ、それを言葉にして分かち合いながら、今後を考え合っていきたい。

アマビエで検索すると、いろんなイラストが出てきて楽しいです。
↑これはイラストACのmilo_ACさんのイラスト。

コメント