雨降って、地固まりますように

新型コロナウィルスの感染防止が求められるなか、いまや触れるものすべて、接する人すべてが疑わしくなってしまっていて、いわば「世界」への信頼が失われてしまっている、いま、さまざまな居場所などにおいて必要なのは、リスクを承知のうえで自分や場を他者に開き、世界への信頼を取り戻していくことではないか。ということを、先日、このブログに書いた(【居場所とコロナと信頼と】)。

しかし、コロナ以前から世界への信頼を失って苦しんでいる人はいて、さまざまな「居場所」の活動というのは、学校や職場や家庭などで居場所を失ってしまった人たちが、その外部に自分たちで場をつくりだし、世界への信頼を取り戻そうとしてきた営みなのだと思う。それは、フリースクールのようなかたちをとることもあれば、自助グループのようなかたちをとることもあり、さまざまだが、人が世界への信頼を取り戻す足場となってきたことは共通しているように思う。


●基本的信頼

つらつらと、そんなことを考えていたところ、下記の文章に出会った。ひきこもり経験があり、雑誌『ひきポス』の編集長をされている石崎森人さんの手記だ。

 家庭環境に安心を感じてすくすくと育つと、人は自分の人間関係に違和感を覚えずにいられます。このような状態を心理学者のE・H・エリクソンは、「基本的信頼」と呼びました。この基本的信頼が育たないと、世界に対する不信感、あるいは違和感を常に感じる状態になります。そういえば子どものころの私はいつも「自分はここにいてよいのだろうか」という不安感を感じていました。
(中略)
 基本的信頼の欠如とは、現実世界にたとえるなら、初めて車を運転するときに、道路指標がいたずらでデタラメに書き換えられたり、信号がランダムで変わってしまうようなものです。標識が正しいかどうかいちいち疑ったり、青信号が何を指すのか念を押して確認しながら進む状態です。これでは警戒してしまって、安心して運転できませんよね。自宅に帰るころにはクタクタで、それ以後は運転するのが怖くなると思います。
 この状態が他者との関係すべてにおいて起きているのが基本的信頼の欠如した状態です。「信号や標識は簡単に書き換わらない」と無意識に信じられないので、些細なすれちがいもオオゴトに感じます。
(「自己肯定感と当事者発信」/『こころの科学』増刊号「いまこそ語ろう、それぞれのひきこもり」日本評論社)

エリクソンは「基本的信頼」を乳児期の母子関係に形成されるものとしているようなので、「母性神話」との批判もあるかもしれないが、石崎さんの言わんとしていることは、コロナの感染防止にあくせくせざるを得ないいま、多くの人が実感をもってわかるのではないだろうか。これまで、あたりまえだと思っていた社会の「信号」や「標識」は疑わしくなってしまい、マスクを着けていない人がいるなど、ささいなすれちがいもオオゴトに感じてしまう。いま、私たちは「基本的信頼」を失ってしまった状況にいるのかもしれない。


●サンクチュアリ

たとえば、アメリカで犯罪者や依存症者の「治療共同体(Therapeutic Community)」の取り組みをしているアミティでは、人が回復していくには「サンクチュアリ」が必要だと言っている。サンクチュアリというのは安心・安全な場所のことで、そういう場所を得られなかった人たちが、加害行為にいたったり、依存症になったりしている。だから、回復し、更生するには、サンクチュアリを構築していくことこそが必要で、刑務所のなかなどで、当事者どうしが対話を重ね、サンクチュアリを紡いでいる(坂上香監督の映画『ライファーズ』参照。また、日本での治療共同体の取り組みについては、今年公開された同監督の映画『プリズン・サークル』を、治療共同体についてくわしくは、藤岡淳子編著『治療共同体実践ガイド』を参照されたい)。

日本においても、さまざまな居場所が「基本的信頼」を回復していくためのサンクチュアリとして営まれてきた面はあるように思う(ただ、居場所をたんに社会復帰のための道具のように捉えてしまうと、それはちがうと言いたくなる。居場所は、社会復帰のためなどという下心を捨て去ってこそ、居場所となりうるようにも思う)。その場がサンクチュアリであるためには、同じ当事者であったり、仲間と思えるような、安心感が必要だ。しかし、そこが閉じた場になって、そこしか信頼できないということになれば、その場は、またたくまにカルトと化してしまうだろう。あるいは、どんな場でもトラブルや問題は生じるので、絶対に安全なサンクチュアリはないと言える。その意味でも、居場所は外に開かれている必要がある。


●問題を外に開くこと

外に開かれているということは、いろいろな問題が持ち込まれるということでもある。ウィルスだって持ち込まれるかもしれない。場における「基本的信頼」というのは、トラブルや問題がない状態ということではなくて、トラブルや問題が生じるリスクがあっても、外に向かって開き、何か起きた際には、それをともに考え合ったり、修復してくことができると信じられるかどうか、ということなのではないだろうか。自分たちのサンクチュアリを守ろうとして、その場で生じた問題や不都合なことを隠蔽したり排除してしまっては、結局は、その場の安心感は失われてしまう。逆に、トラブルや問題を生じさせないようにと管理的になるばかりでも「基本的信頼」は培われないし、その場がサンクチュアリにはならないように思う。問題が発生したときにこそ、その場の「基本的信頼」が問われ、雨降って地固まるように、そうしたプロセスを経てこそ、その場はサンクチュアリとなり得るのではないだろうか。

また、どこかの場で問題があきらかになったときには、それを他人事として叩くのではなく、どの場でも起こりうることとして、自分事として考え合えるようでありたい。そうした対話が可能であれば、いざ問題が生じた際にも、それを外に向かって開くことができるように思う。

いずれにしても、居場所の運営は常に悩ましいが、その悩ましさを手放さず、考え続けていきたい。



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