コンプラ、リスク、あやしげなものの行方……

日本社会の悪い癖として、外国語を未消化なまま、カタカナ語にして流布してしまう問題があるように思う。私自身、長いこと「フリースクール」に関わってきて、その実、「フリースクール」とは何なのか、あいまいなままやってきてしまっているので、反省を込めて言うのだが、これは悪癖と言っていいだろう。

新型コロナウィルスをめぐっても、「クラスター」だの「ソーシャルディスタンス」だの、やたらとカタカナ語が多く(すでに死語と化したものもあるが)、わかったようなわからないようなまま、従わせられてしまっている感がある。

こうしたカタカナ語のなかで、私が引っかかっている言葉のひとつに「コンプライアンス」がある。やたらと聞くようにはなったものの、わかったようなわからないような、それでいて従わせられてしまう感が強い。水戸黄門の印籠みたいな感じと言ったらいいだろうか……。


●リスクの問題に

コンプライアンスは法令遵守のことだというが、法令だけではなく、倫理的なものも含めた社会的要請を守ることでもあるそうだ。第一、法令自体が、さまざまな社会の動きのなかでつくられていくものだろう。たとえば労働問題でも、パワハラやセクハラといった問題は、先に法令があったわけではなく、問題にする声があがっていくなかで、後から法令はつくられてきたわけで、法令を遵守しているだけでは改善してこなかったにちがいない。何を問題とし、何を正当とするのかは、あらかじめ決まっているわけではない。しかし、組織のなかでコンプライアンスが言われるとき、ややもすると、組織を守るためだけに使われているように思えることもある。問題が起きたら、その問題を考え合うことが組織を変え、今後につながるはずだが、問題を抑止することばかりが意識されてしまう。そこでは、問題は「リスク」でしかない。そのとき意識されるのは世間の「評判」で、そうなると、問題自体と向き合うことはできなくなってしまう。

社会学者の小松丈晃は「評判リスク」の問題について、次のように言う。

リスクは、「何かにとっての(リスク)」という準拠点を明示しなければ意味がないが、ここでのリスクの準拠点は明らかに「(当該)組織」であり、したがって、評判リスク概念を介して管理されるのは、直接には、決して人間の健康にとっての「リスク」や人権侵害の「リスク」、あるいは地球温暖化や大事故や自然災害の「リスク」といった「ファースト・オーダー」のリスク対象ではなく、企業価値の毀損や株価下落、顧客の喪失、民事/刑事訴訟に持ち込まれることによるイメージ悪化、などといった当該組織にとってのリスク(副次的リスク)である。(小松丈晃「個別化されたリスクとしての〈コンプライアンス〉」『現代思想』2019年10月号)


たとえば、東京シューレにおける性被害事件についても、それが「評判リスク」の問題となってしまった結果、きちんと検証し、考え合うことができずにきたのではないかと思う。「評判リスク」は当該組織にとっては大きな問題にはちがいないが、しかし、まずは何より「ファースト・オーダー」の問題をきちんと考え合うことが必要だろう。


●あやしげなものの行方

また、コンプライアンスという言葉が使われるようになった背景には、社会が市場化してきたこともあるように思える。いまは、さまざまな活動が市場への適合を迫られていて、あやしげだったり、あいまいだったりする活動は、どんどんその生息地を奪われてきている。たとえば、フリースクールみたいな場というのも、かつてはあやしげな、よくわからないものだった。塾なんかでも、進学塾ではなくて、いわゆる「落ちこぼれ」が集まるような塾があったり、それをやっているのは学生運動くずれのおじさんだったり、あるいは、大学なんかには、あやしげな場がたくさんあったりした。しかし、フリースクールや塾なども市場に適合しないところはつぶれていき、大学などにも、あやしげな場はなくなってしまった。しかし、その反面で、あやしげなものの行き場はなくなって、ややもすると暴発してしまうか、個人の「病理」となってしまっているようにも思える。

コンプライアンスといったとき、そこにキュークツさを感じるのは、そのあたりが関係しているように思う。まちがいが許されない、迷惑をかけられない。まちがいや迷惑は指弾され、その場からは排除されていく。あるいは、社会のなかから、あやしげな場が排除されていく。しかし、そもそも人が集まれば、常に問題は生じるものだし、迷惑はかけてしまうものだし、そのなかで折り合いをつけていくなかで、信頼関係は醸成されていくものではないかと思う。そういう「ふところ」みたいなものが、さまざまな場においても、社会全体においても、なくなってきているのではないか。最初からスッキリと何の問題もない場など、かえって気味が悪いとさえ思ってしまう。


●かつてがよかったわけではない

ただ、かつてがよかったということではない。かつては、その場で力のある人がわがもの顔で自由にふるまい、そのなかでハラスメントが横行し、弱い立場にある人は泣き寝入りするか、その場から排除されてきた。あるいは、その場における力関係や常識が固定化してしまうと、外から見たらおかしなことになっているにもかかわらず、内部にいると、そのおかしさに気づけないこともある。そういう問題に対して、外の目線を入れてただすことができるようになることは、望ましいことにちがいない。

ただ、そのとき、まちがいをリスクとしてのみ捉えるのではなく、その組織や場のあり方を問うていくための契機としていくことが必要なのだと思う。そうでなければ、リスクは排除され、問題は隠され、キュークツさばかりが強まってしまうようにも思える。

東京シューレにおける性被害事件についても、そもそもの問題をきちんと検証し、考え合う契機にしなければならない。たんに過ちを指弾するだけでは、東京シューレのみならず、フリースクール関係者は、リスクを減らそうとするだけになってしまうのではないだろうか。そうなってしまったら、そうした場は、子どもにとっては息苦しいものになってしまい、安全ではあっても、安心な場ではなくなってしまうだろう。

コンプライアンスというのであれば(よくわからないカタカナ語は使いたくないが)、問題をリスクとして抑止するだけではなく、問題が明らかになったときに、それを開いて、考え合う機会をつくることにこそ求めたい。


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