不都合な事実と向き合うための作法

前回の記事で、見たくない不都合な事実と向き合っていくためには、何か作法のようなものが必要ではないか、と書いた。では、どういった作法であれば、不都合な事実と向き合っていくことができるだろうか。まずは、思いつくままに書き出してみたい。


●不都合な事実と向き合うための作法

・自分は見たいものだけを見てしまうものだと自覚すること。

・見たくない事実を見るには、自分だけでは無理だとわきまえること。自分だけに抱え込まず、他者と共有して考え合い、団体の場合は、問題を団体の外に開いて考えること。

・被害の訴え、問題指摘、批判などに対しては、脊髄反射的に否定しないこと。できるだけ予断なく、虚心坦懐に話を聞くこと。また、自分の価値観で決めつけないこと(それぐらいたいしたことない、など)。

・被害の訴えなどのあった場合、安易に被害者の心理や認知の問題にしないこと。

・自分も「まちがっているかもしれない」というわきまえを持ち、自分の感覚をあたりまえにして押しつけないこと。

・客観・中立を装わないこと。どんな場や人間関係にも力関係があることを踏まえ、常に力関係の弱い側に立とうとすること(客観・中立の態度は、力関係の強い側に立つことになりやすい)。

・大義や大きな目的のために、足下で起きた問題を抑圧したり軽視しないこと。

・自分の意識を世間のほうに向けないこと(評判リスクの問題にしないこと)。

・「まさか、あの人が」バイアスに要注意。「仲間」の問題を見て見ぬふりをしないこと。

・問題と人格は分けること。人格をおもんぱかって、その人の起こした問題を見ないことにしたり、逆に、問題を起こした人の人格を否定して、排除するだけにしないこと。

・問題を起こさないように管理するだけではなく、問題が起きたときに否認せず、きちんと対応できるように考えること。

・かといって、問題だらけでOKと開き直らないこと。

・日ごろから、他者からの批判、異論、ノイズなどを大事にすること。自分のいる場の同調圧力、ウチ意識、権力性をゆるめておくこと。個人が自分の意見を言いやすい風通しのよさを心がけておくこと。

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よくある行動指針や倫理規定などのガイドラインは、問題が起きることの予防を目的に、禁止事項を盛り込んでいることが多いように思うが、ここに挙げたのは、何か起きてしまったとき、それが自分や自分のかかわる団体にとって不都合であったとしても、その事実と向き合うための作法として挙げてみたものだ。解決の方策をはかる前に、まずは事実をきちんと見ることが大事ではないか。ただ、これは周囲が二次被害を生まないための作法ということかもしれない。まだまだ充分ではないような気がするのだが、自分の頭だけで考えているよりも、打ち出してみて、ご意見をいただければと思った次第。今後、この記事に追記するなり、修正するなりしていきたい。 

 * * *

この記事に、いくつか意見をいただいて、さしあたって、ふたつほど追記しておきたい。

・ひとつは、誰を想定しての「作法」なのかということで、私が想定していたのは、いわゆる「支援者」として、フリースクール、居場所、当事者研究などに関わる人たちだ(ほんとうは「支援」という言葉にも引っかかっているのだが、とりあえず、ここでは保留)。

・もうひとつは、私の立ち位置で、「作法」なんて書くと、あたかも私が作法を体得している師匠さんみたいで、上から目線で指し示しているように思われるかもしれないが、これは私自身が、こういうことを言葉にしておかないと見たいものだけを見てしまうので、何より自分の反省と自戒のために挙げたものだ。

自分自身は、どうしても自分にやさしく、自分に都合よくしかものを見ることができないことを踏まえて、何か自分に不都合なことがあったときには、自分だけではなく、他者と考え合っていけるようにしておきたいと思う。(2020.11.03追記)

コメント

  1. 山下さん、こんにちは。

    不都合な事実に向き合うのはしんどいことなので、不都合な事実に向き合った先のゴールは何なんだろう、と思いました。それをここでは「見直す」という言葉をキーワードにコメントしたいと思います。山下さんの記事の中では「問題と人格は分けること」にかかわることです。

    見直す、という言葉は、それを物事に対して使うか人に対して使うかで、ニュアンスが異なります。「これこれを見直す」とは、物事の細部に入って一つ一つチェックすること。対して「誰々を見直す」とは、その人の新たな好い一面を見て、下がった名誉が挽回された印象を持った時に使う言葉です。

    現代ではこのように二つの意味に分かれていますが、もしかしたら、本来はこれらは一続きのものだったのかもしれません。つまり、「見直す」とは、物事を見直し、最終的に人を見直す、その一連の行いのこと、だったのではないのでしょうか


    問題の検証を行うとは、最終的に結果として、人を見直す、そういうことが起こる可能性を残して、一つ一つの物事を見直すことである。実際に人を見直せるかはわかりませんが、問題の加害側の人や外部の人が問題の検証を行う場合、こういう姿勢は必要だと思います。

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    1. (読み返してみると尻切れなコメントだったので付け足します)

      人を見直すということは、起こすものではなく起きるものなので、直接的に目標にできない目指すことのできないゴールです。けれど、不都合な真実に向き合った先にあるゴールを仮に想定するとすれば、多くあるゴールの一つではありますが、それは、人を見直すということが起こること、ではないのでしょうか。

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  2. コメント、ありがとうございます。「見直す」という言葉、たしかに二側面ありますね。とても腑に落ちました。私が言いたかったことも、そういうことだなと、自分の記事を「見直す」こともできました(笑)。

    不都合な事実が起きた場合にかぎりませんが、批判は人格否定になってしまうと、相手を叩きつぶすための道具になってしまうように思います。しかし、問題と人格を分けることできれば、対話の可能性に開かれるように思います(実際問題、難しいことは多いですが)。批判に応答があること、そこに対話があることが、「見直す」が起こることにつながるのかなと思いました。

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