見たくないものを見るには

かつて、「ほしいものが、ほしいわ」というコピーがあった。バブル全盛期のころの西武百貨店の広告で、糸井重里のコピーだ。商品も情報もお金もあふれかえって、ぶくぶくしていた時代の空気をあらわすコピーだったのだろう。しかし、その感覚は、いまにいたるまで続いているようにも思う。

少し前の朝日新聞で、社会学者の宮台真司が、「見たいものだけを見る」意識が、安倍政権を支えてきたと語っていた(「耕論」朝日新聞2020年9月15日)。一部の経済指標だけで成長を謳うアベノミクス、その一方で実質賃金は低下し、子どもの幸福度も低く、社会の劣化は進んでいる。一見、豊かに見える「疑似包摂社会」のなかで、格差や分断は確実に進んでいて、しかし、その痛みは自己責任になっていて、自意識の問題として回収されてしまっている。それを宮台は「自意識による粉飾」だと語っていた。見たいものだけを見て、痛みや苦しさは「自分のせい」として閉じ込めてしまう。たしかに、そういう面はあるように思う。

自分自身にも、「見たいもの」ばかり見ているところはある。たとえば自分のSNSを見ていたら、自民党や維新の会の支持者は少ないし、新自由主義には反対するのが当然で、社会民主的な政策を支持している人がマジョリティのように見えてしまう。よく言われるように、ネット空間はタコツボ化していて、「見たいものだけを見る」自意識はエスカレートしてしまいやすい(エコーチェンバー現象)。それは特定の思想の人の問題ではなく、自分自身を含め、どこでも起きていることにちがいない(自分だけはちがうと思う人のほうが危ない)。


●消費者ニーズには応えても……

逆に言えば、「見たいもの」を見せていれば、商売にはなる。「見たいものを、見たいわ」に応えていれば、消費者のニーズを満たすことができる。いかに「見たいもの」を見せるかといったスキルは、いま、あらゆる領域に浸透しているように思う。

たとえば学校でも、運動会の組体操が巨大化して事故が頻発してしまったり、部活動がエスカレートして「ブラック部活」化してしまう背景には、保護者が消費者化していて、その消費者ニーズに応えて「見せ場」をつくろうとしてきたことがあるという。あるいは、卒業式や「2分の1成人式」などでは、保護者へのサプライズの手紙を書かされるなど、「感動の演出」がはかられているという。子どもは、そこでは消費者(保護者)の「見たいもの」を見せるパフォーマーとなっている。(大内裕和、内田良「「教育の病」から見えるブラック化した学校現場」『現代思想』2016年4月号参照)

フリースクールなどにも同じことは言えるだろう。子どもたちがフリースクールを出たあと、どういう道に進むかと言えば、かならずしも明るい道ばかりではない。当然のことながら、たいへんな思いをしている人たちは数多くいるし、私自身の実感としても、むしろたいへんな思いをしている人のほうが多いように感じる。しかし、フリースクールや不登校の運動のなかでは、フリースクール(あるいは不登校)その後の現実を直視するのではなく、成功している人の例を示すことで、「学校に行かなくても大丈夫」というストーリーをつむいできたところがある。

そういう語り方に対する批判は、貴戸理恵さんや常野雄次郎さんから、つとになされてきたのだが(『不登校、選んだわけじゃないんだぜ』理論社2005など)、まともな議論にはなってこなかった。それでも、たとえば2016年から2018年にかけて全国不登校新聞社において実施した「不登校50年証言プロジェクト」などでは、これまできちんと向き合えてなかった問題に踏み込んだインタビュー記事を残すことができたように思っているのだが、やはり、なかなか「見たいものだけを見る」意識は変えることができていないように思う。


●不都合な事実と向き合う作法を

不登校新聞で私が手がけた記事には、不登校その後に苛酷な状況を生きてきた人のインタビューもいくつかあったのだが、編集部のひとりから「読者が不安になるから困る。読者のニーズに合っていない。この記事が購読部数の拡大に寄与するのか」などと言われたこともあった。

不登校新聞は、2012年に休刊危機を迎えたころから、マーケティングを重視し、読者ニーズに応えることを徹底するようになった。もちろん、読者の声をきちんと聴くことは重要で、それは私が編集長をしていたころには足りていなかったことでもあって、現編集部は、そうした努力によって紙面を充実させ、部数を回復させてきた。それは正当に評価されるべきことだろう。しかし、その一方で、読者を「お客さま」と呼ぶようになり、その「顧客ニーズ」はネットでの閲覧数で測定され、評価されるようになった。それが「エビデンス」だというのだ。閲覧数の多い記事とは、つまりは「見たいもの」を見せる記事ということだろう。しかし、そういう編集スタンスでは、見たくない現実に向き合うことは難しくなってしまっているようにも思える。

不登校新聞やフリースクールなどにかぎらず、いま、NPO界隈にはマーケティング技術などの市場原理が深く入り込んできており、かつての「運動」は、ソーシャルビジネス化してきている。しかし、そこでは「見たいもの」を見せることばかりが重視されているように思う。自分たちの活動がどういう成果を生んでいるのか、数字にして可視化し、プレゼンし、事業収入の拡大や助成金獲得などに励む。自分たちの熱意や思い込みではなく、数字にもとづいて活動を検証する作業には有効な面もあるとは思うものの、一方で、ものごとの複雑な文脈は単純化され、わかりやすいストーリーが仕立て上げられ、そこに乗らない問題は切り落とされてしまいがちだ。

東京シューレにおける性被害事件について、なかなか検証作業が進んでこなかったのも、全国不登校新聞社が何の見解を示せないでいるのも、その背景には、こうした問題もあるように思う。いま、私たちが必要としているのは、見たくない不都合な事実と向き合っていくための作法のようなものではないだろうか。市場的な評価指標では、不都合な事実は評判リスクの問題となってしまって、ますます不可視化されてしまうように思う。では、どういった作法であれば、不都合な事実と向き合っていくことができるのか。ひきつづき、考えていきたい(とりあえず、今回はここまで)。

イラスト:イラストAC/パコたん

>つづき:不都合な事実と向き合うための作法

コメント

  1. こんにちは

    私は不登校やフリースクールの実際についてよく知っているわけではないのですが、少なくとも、この記事を読む限り、「学校に行かなくても大丈夫」というのは、「学校にに行かなくても(将来が)大丈夫」を意味しなかったのだな、と思いました。おそらく不登校支援者の方が「学校に行かなくても大丈夫」というメッセージを出すとき、その動機としても「実際に将来が大丈夫だから、大丈夫」と言っている訳ではなかったのではないのでしょうか。将来が大丈夫とは別の次元で、大丈夫、と言っていた。本質としてはそうなのではないか。

    将来が大丈夫かどうかなんて、学校行っていようがいまいが、わからない。けれど、学校いっている人はまるで将来が大丈夫であるかのように頭が麻痺しやすい状況にあるし、イメージですが学校にいっていないものは学校に行っているものよりも実際上将来が大丈夫とは言いがたい。

    だからこそ、不登校の当事者や保護者が当事者自身の将来の不安を強く感じるのは無理からぬことだと思います。

    昔、海上保安官を主人公にした漫画(「海猿」)を読んたことがあり、その一場面で、藁をもすがる様子でバシャバシャと溺れる人をあえて、すぐには助けない、というシーンがありました。救難者にすぐにかけよって助けようとする新米の主人公を先輩の保安官が引き留め「パニックになっている救難者にしがみつかれてはお前が救難者になる、救難者も助けられない」というようなことをいって叱るシーンだったかと思います。助けを求める救難者の「助けて」にそのまま応えては、結果的に救助者も救難者になり、救難者も助けられない。

    私は不登校問題にたいして傍観者であるので、こういう言い方をしていいのか、躊躇いがありますが、「学校に行かなくても大丈夫」という言葉が「学校に行かなくても(将来が)大丈夫」という意味に飲み込まれていくのは、組織の経済的な維持、評判リスクとは別に、助けにそのまま応え、一緒に溺れてしまった、とそういう側面があるのではないのでしょうか。



    返信削除
    返信
    1. 救難者、という用語はないみたいです。要救助者、遭難者と言ったりするそうです。

      削除
    2. 脇屋さん

      コメント、ありがとうございます。
      そうなんですよね。不登校にかかわる人のなかで言われてきた「学校に行かなくても大丈夫」というときの「大丈夫」って、存在承認的な言葉であって、業績承認的なものとは別の価値尺度からの言葉だったんだと思うんです。ただ、おそらくは当事者に向けて語られるときと、世間に向けられて語れるときとで、ズレがあって、世間のほうを向いてしまったとき、後者にズレていってしまったような気がします。

      その昔、絵本作家の五味太郎さんにインタビューしたときの言葉を紹介しておきます。不登校にかぎらず、こういう「大丈夫」は大事だなと思います。

      ――学校に行かなくても、そうですけど、他人とちがう生き方をしていると、やたらに不安がられたり、心配されますよね。

      そういうとき、誰かほかに「大丈夫」って言ってくれる人がいるとちがうんだよな。これが一人いるかいないかで、けっこうちがう。俺のまわりは、けっこういたな。「大丈夫だよ、おまえ。学校行くヒマあるんなら競馬行こう」みたいな(笑)。大丈夫じゃないんだよね、全然(笑)。だけど、その「大丈夫」は、社会保障とかそういう意味じゃないよな。「なんか生きてけるよね」っていう感じ。
      (全国不登校新聞社編『この人が語る不登校』講談社2002)

      削除

コメントを投稿