「大丈夫」の幻想を売るな

先だって、このブログに「『大丈夫』をめぐって」というテーマで3本の記事を書いた。それを読んだ方(不登校経験者でフリースクールに通っていた経験のある方)から、「私は、柔らかくあたたかな場所で受けいれられるだけの存在ではありたくなかった」と、次のような感想をいただいた。

昔の私は「大丈夫な自分」でいたかったことを思い出しました。10代後半、あたりまえのように虚勢を張ったり、誰かと付き合ってることで得意になったり、イケてる自分を演出したり、そういう時間を何よりも欲していたと。業績承認としての「不登校でも大丈夫」に救われてたいたことも思い出しましたし、進路や経歴としてのそれらと、上に挙げたような「イキっていたい」感覚はセットであったようにも思います。でも、それも自然なことで、必要な青さだったのかなとも思います。私は、柔らかくあたたかな場所で受けいれられるだけの存在ではありたくなかったんだと。(Twitter @kmii333

たしかに、当の本人からしたら、存在承認だけでことたりるわけはなく、家族や居場所などの「あたたかな場所」で受けいれられるだけではなく、「社会」で認められたいと思うのは当然のことだと思う。私には不登校の経験はないが、イキって、イケてる自分を演出するようなことは、自分自身にもあったように思う(年齢を重ねると、ふだんは忘れてしまっているのだが)。でも、そういう青さがあるからこそ、子どもや若者は外の世界に出て行くことができるのかもしれない。

不登校であったかどうかにかかわらず、きちんと業績を承認してほしいと思うのは、至極当然のことで、それ自体はまっとうなことだと思う。それに対して、学歴という一面的な評価軸ばかりで人が選別されていることはおかしいし、業績承認のあり方も、ただされないといけないだろう(ここにも、たいへんあやうさがあるのだが、この記事では保留しておきたい)。

しかし、社会が流動化しているなかで、安定した業績承認の場は減少していて、たとえば雇用について言えば、不安定な非正規雇用ばかりが増えていて、正規雇用であっても「ブラック企業」の問題があったり、短期的な成果を上げることばかりが求められるようになっている。いずれにしても、「大丈夫」な職場は減っていて、縮小されたパイをめぐって競争は激化している。にもかかわらず、教育段階においては、がんばりさえすれば自己実現できるという幻想がふりまかれている。そして教育産業は、そうした気持ちにつけこんで商売をしている。業績承認としての「大丈夫」が、実態をともなっているのであればまだしも、そこが空虚なまま、自己実現の幻想をふりまいて、その幻想を売ることで商売をしているのであれば、それは倫理にもとると言いたい。それは、営利的な教育産業だけではなくて、フリースクールやNPOなどにも問われていることだろう。とりわけ、学校に行かなくなって将来に不安を抱えているところに甘い幻想をふりまくのは問題で、それは「不登校ビジネス」だと言える。近年の状況を見ていると、いまや営利企業かNPOかという線引きは意味をなさないほど、「不登校ビジネス」は横行しているように思う。

もちろん、どんな理念を持っていようと、実際問題として、お金をまわすことができなければ、この社会で活動できないという現実はある。関わるスタッフが安定して働くことができなければ、安定した活動もできないという面はある。しかし、自分たちの食い扶持や活動の維持のためではなく、子どもや若者の側に立って考えるのであれば、不安につけこんで、見たいものを見せて商売をするのではなく、現実を直視しながら、その現実にともに向き合っていく関係をつむいでいきたいと思う。


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